答は1つでない
2020年度の大学入試改革をどのように捉えるかは人それぞれだと思いますが、ロジカルノーツでは「論理的表現力」がますます重視されるようになる契機だと位置づけています。
論理的表現力が重視されるということは、どういうことでしょうか。ロジカルノーツでは「論理は『情報と情報のつながり』に現れる」と考えており、そのため、論理的表現力を「『言語情報と言語情報のつながり』を示す場面で要求される力」と理解しています。
情報「X」から情報「Y」を導くプロセスにおいて、人によっては「X→α→Y」と言いたいでしょうし、「X→β→Y」と言わないと気が済まない人もいるでしょう。「X→γ→Y」でないと気持ち悪いと感じることも十分あり得るわけで、「X」から「Y」に至る道筋は多様です。そして、個人のさまざまな捉え方が許容される問題である場合には、どの道筋が絶対的に正しいのかを決することはできません。
同様のことは「情報『X』から何を導くのか」という問題にも当てはまります。情報「X」に接したとき、「情報『Y』を言いたくなる人」がいれば、「情報『Z』を言いたくなる人」もいるでしょう。そして、これも個人のさまざまな捉え方が許容される問題である場合には、どちらが正しいのかを決めることができません。
「正しいもの」が定まっていない場合、すべてのことが正解であり得ます。しかしながら、「私は○○が正しいと考えている!」と声高に言ってみたところで、共感者を得られないのであれば虚しさを覚えるのも人の心。どうにかして共感者を獲得したいと思うならば、頭の中にあるものを他者が認識できる形にし、「なぜそのように考えるのか」を示さなければなりません。このときに欠かせないのが発信情報の論理性です。「よく知ってるなあ」と思わせるのではなく、「なるほど!」や「たしかに!」と思わせることが主目的となります。
社会のさまざまな場面でIT化やAI化が進んでいく。そんな未来をイメージしてみますと、知識偏重型の人材の居場所はどの程度残されるのでしょうか。いまでさえ、何か情報を手にしたいと考えたとき、「まずは『Google先生』に尋ねる」という方法が有効な場面も少なくありません。社会に出る一歩前の受験生が論理的表現力をトレーニングすることには、「入試のため」という側面以上の意義があるように思えます。
テストという文脈で考えると、「単一の答を事前に定めることができない」問題や「そもそも答を前提としない」問題では、論理的表現力が特に重要となります。京都大学2018(前期)英語【Ⅲ】は「どのような情報を示すか」や「どのような議論展開にするか」について選択の幅があり、この意味で、論理的表現力が特に問われるタイプの出題だと言えるでしょう。
<議論①>に対する批判的検討
海外からの観光客に和食が人気だという話になったときに、文化が違うのだから味がわかるのか疑問だと言った人がいたが、はたしてそうだろうか。 。さらに言うならば、日本人であっても育った環境はさまざまなので、日本人ならわかるということでもない。
京都大学2018(前期)英語【Ⅲ】では、下線部に入れる情報を自分で考えることも要求されています。「言語化する情報を受験生が決めてよい」ということですので、「単一の答を事前に定めることができない」問題と位置づけることができるでしょう。
前回の記事では、「文化が違っても味がわかる人もいる」という<議論①>を紹介しました。
<議論①>
海外からの観光客に和食が人気だという話になったときに、文化が違うのだから味がわかるのか疑問だと言った人がいたが、はたしてそうだろうか。確かに、長い時間をかけて作られてきた和食文化については日本で生活している人のほうが理解しやすいかもしれない。しかし、味がわかるか否かは個別的問題であり、また、和食料理が海外で提供されていることも考慮すると、観光客の中には和食の味がわかる人もいるはずだ。さらに言うならば、日本人であっても育った環境はさまざまなので、日本人ならわかるということでもない。
「文化が違えば味がわからない」という意見に対しては「文化が違っても味がわかる人もいる」と述べれば、形式上、反論としては成立します。しかしながら、この<議論①>には「表面的なものに過ぎない」という印象を受けます。なぜなら、反例を示しただけであり、いわば「言い過ぎ表現の粗探し」をしただけでもあるからです。
議論においては相手の発言意図を踏まえた言葉のやりとりをしなければ「言葉のお遊び」から抜け出せません。「文化が違うのだから味がわかるのか疑問だと言った人」はどのような意図で発言したのかを少し考察してみましょう。
「海外からの観光客に和食が人気だという話になった」とありますので、「海外からの観光客」を対象とした話し合いの場面です。この「海外からの観光客」には「○○国からの観光客」という地域的限定が示されていませんので、その中には和食文化に親しみを覚える文化圏の人も含まれているはずです。そう考えると、<議論①>には問題があるでしょう。なぜなら、「『文化が違うのだから味がわかるのか疑問だと言った人』の頭の中には『和食文化に親しみを覚える文化圏の人』が存在しない」と決めつけているからです。
A「文化が違うのだから味がわかるのか疑問だ」
B「文化が違っても和食の味がわかる人もいる」
この流れだと、
A(「傾向」としての話をしていて「例外ケースの有無」を議論したいわけじゃないんだけど・・・なんだか話が噛み合っていないなあ)
といったことになりかねません。
これではコミュニケーションとして成立しているとは言えないでしょう。そこで、少し違った議論展開を紹介したいと思います。
<議論②>「味がわかるのか」という疑問の背後にあるもの
再度、下線部前の文を示します。
海外からの観光客に和食が人気だという話になったときに、文化が違うのだから味がわかるのか疑問だと言った人がいたが、はたしてそうだろうか。
「海外からの観光客に和食が人気」ということは、その観光客は「和食を気に入っている」ということを意味します。人気の要因としては、「異文化を感じられる」や「フォトジェニックだ」など、「味以外のもの」もあるかもしれませんが、食べ物のことなので「海外からの観光客の中には和食の『味』にプラス評価を与えている人がいる」と考えるのが素直でしょう。
そういう人に対して「(和食の)味がわかるのか」という疑問をもつこと自体に何か問題が潜んでいるような気がしてなりません。「文化が違うのだから味がわかるのか疑問だ」という発言の背後には「日本人の『食』に関するプライドの高さ」があるようにも思えます。
「わかる/わからない」の議論をしていることを意地悪く解釈すれば、「日本人の繊細な味覚は特別なものなので、海外からの観光客には『和食』の味がわからないはずだ」のように、和食を楽しんでいる海外からの観光客を見下す発言をしているとも受け取れます。「海外からの観光客には『和食』の味がわかる素養がない」とでも思っているのかもしれません。
食べることは体を作ることでもあります。他者が喜んで何かを食べていることに対してネガティブな発言をすることは、存在自体にかかわる人格的非難のように思えます。少なくとも行儀のいい振る舞いではないでしょう。
2013年12月に「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録され、また、umamiが世界で注目されています。こういった事情は、日本文化圏にいる人が自らの食文化をスペシャルなものと捉える一因にもなるでしょう。
日本文化圏にいる人が「和食」に誇りをもつこと自体は当然です。自分の体を作っているものに誇りをもつことができなければ自尊心はひどく傷つけられるでしょう。しかし、だからといって、他の文化圏を低く見ることが正当化されるわけではありません。
この<議論②>のように問題と向き合ってみますと、京都大学2018(前期)英語【Ⅲ】は、多文化共生の理念について考えさせられる問題です。
<議論②>
海外からの観光客に和食が人気だという話になったときに、文化が違うのだから味がわかるのか疑問だと言った人がいたが、はたしてそうだろうか。そもそも何を美味しいと思うのかは人それぞれであり、料理の提供者側でない限り、食事を楽しむ側の感じ方がすべてであろう。そうであれば、和食を楽しんでいる異文化圏の人に対して「味がわかっていない」と評するのは、文化圏の内部外部を意識しすぎた侮辱的発言である。さらに言うならば、日本人であっても育った環境はさまざまなので、日本人ならわかるということでもない。
(吉崎崇史)