日本語・英語・フランス語・ラテン語・ギリシャ語をそれぞれ少しかじったが、結果的にすべてが今のイタリア語学習に通じていることを実感する。
私がイタリア語を勉強しているのは、少し前から始まったイタリアでの生活のためである。しかしながら、そもそもの動機はもっと個人的なことであった。11月に来日するローマ教皇(メディアでは「法王」と言うが、この違いも調べると面白いかもしれない)のスピーチを通訳を介さずに理解したかったからである。
これまでの記事の流れからすると、本来であれば、ギリシャ語の次にイタリア語について書くべきなのだろう。そして、最後に思ったこと・感じたことを書くのが流れとしてはふさわしいのだろう。
しかし、私の本格的なイタリア語学習は始まったばかりなので、まだ書くことができないでいる。
というのも、私はイタリアに着いてまだ3週間しか経っていない。語学学校も始まっていない。日本で10ヶ月の間に勉強しただけである。
(クラスは講師と私の1対1で、1回60分。基本的に週1回実施。最初の30分前後は前に習ったことの復習をかねて、「何をしたか」、「これから何をするか」などイタリア語での会話をする。教材は、高田和文「話すためのイタリア語」白水社(2002)とPERUGIAの出版社が出している「Grammatica Italiana per Stranieri in italiano 1」である。)
だから、本稿では、イタリア語を学ぶ中で、思ったこと・感じたことを書いてみたい。
構文レベル
2年間の浪人生活で、英語の勉強が楽しいと思えるようになった。そこでの文の組み立て方や「言い直し方」はその後の各言語の理解に役立っているし、イタリア語を学ぶ基礎となっている。例えば、副詞節と主節の関係や基本構文なら英語からイタリア語に単語を置き換えることで、ちょっとは通じている。
また、思考力や論理力が養成されるという点では、英・仏・羅・希・伊語は似ているところがある。もちろんそれぞれの言語にも「行間を読む」ということはあるのだろうが、「言いたいことをはっきりと言わなければ相手に通じない」という点では共通しているように思われる。
髪を切りに行く際に、日本語なら「〇時に美容院を予約した」と言えば、「その人が髪を切りに行く」ことは言わなくてもわかる。日本でイタリア語を勉強したときに、「〇時に美容院を予約した」をイタリア語に置き換えて話してみたが、先生には「それで?」と言われてしまった。イタリア語なら、「〇時に美容師さんと約束をした」と言うと教えられた(日本語の表現でも通じる気はするのだが)。同じように、食事の約束についても、「レストランを予約した」と日本語で言えば、何人かと食事をすることぐらい「自然に」理解できるだろう。こちらも、「××と食事をするために〇時にレストランを予約した」と表現した方が良いと言われた(この表現については、イタリアでの生活で確かめてみたい)。
ただ、(推測の域を出ないが、)少なくともイタリア語圏では「人を大切にする」という発想が根底にあるように思う。日本はどちらかというと「個よりも集団」を大切にする文化である(周りの目を気にしたり、人がどうしてるかを気にしたりすることが多いだろう)。これは良いか悪いかではなく、「個人主義」が根底にあるかどうかの違いだろう。
言葉の勉強では机の上で単語や文法を学ぶことも必要であるが、実際にどう使うかという視点を忘れては生きた学びにならない。これは皆が了解することだと思う。
単語レベル
抽象語の場合は単語の形が少し違うだけで、英語・フランス語・ラテン語のどれかに似ていることがあるので、大意を「なんとなく」理解するには難しくない。
しかし、私はイタリアで数年間生活をするので、実際の生活に即した言葉(スーパーでの買い物など)は覚えなければ生きていけないのである。「柄」を見たらなんとなくわかるが、スーパーで、どれが食器用洗剤で、どれがトイレ用の洗剤で、どれがシャンプーかを区別することは、学校で勉強するよりも大切なことなのだ!
私はアラフォーと言われる年齢であり、新しい言葉を学ぶには少し遅い年齢かもしれない。しかし、毎日の生活は新鮮で楽しいことだらけである。(幸い?)私の周りには日本語を話せる人がいないので、英語とイタリア語でコミュニケーションをとるしかない。
(おそらくよく言われていることだが、)言葉の勉強には「伝える中身」が伴わなければならない。その意味で言葉は手段ではあるが、イタリアでの生活という点では「宗教・芸術・食文化」について言葉を知りながら、背景にある文化そのものを学ぶことも大切なのだ。
例えば、「教会」にはchiesa、duomo、basilica、cattedraleと様々あるが、「教会」と括ってしまうにはもったいないわけで、それぞれに違いがある。単語が違うと概念が違うわけで、それはどの言葉でも同じである。日本語には豊かな「オノマトペ」があるし、日本では虹は7色だが、世界中のどこでも7色というわけではない。
今日の昼ご飯の時、二人が会話をはじめた。テーマは「移民」。イタリア語では「外国から移民として来る人」をimmigranteと言う。英語ではemigrantだろうか。おそらく「移民」という言葉のイメージが二人で違ったのか、会話から口論に発展してしまったようだ。
「移民」を辞書で調べてみたら、なんと!「外国への移民・外国からの移民・外国へ移民していく人・外国に定着した人・外国から移民として来る人」でそれぞれ単語が違うのである。
ちょっとした小話をもう一つ。
「rとlの発音の違い」と聞くと、「日本人には難しいやつ」とか「発音の仕方の違い」とかを連想してしまう。私もそうだった。しかし、こう考えるのは「日本語では区別をしない」と考えているからではないだろうか。「区別をする」言語を話す人からしても、「rとlの発音の違い」は一つの問題となる。
食卓で、私は日本から持って行った「ゆかり」を紹介した。私はイタリア人に、「中身」を説明しようと頑張った。しかし、ある人が言った。それは「ゆかri」なのか「ゆかli」なのかと。私は「えっ、そこ!? 味の問題じゃなくて、名前!? ゆかりはゆかりなのに」と思ったが、彼には「rとlの違い」が問題だったのだ。
言語学習の教材としての聖書
またまた宗教の話で申し訳ないが・・・と思ったが、いや待てよ。聖書はある意味で、教材としてはもってこいのものではないかと思った。かなりの数の言語で訳されている上に、誰が訳しているかという問題は重要であるが、ある程度の書店に行けばきちんとした(こう書くと語弊があるかもしれないが)訳の聖書を手に入れられる。そして、こちらも日本語の聖書(私は、日本聖書協会の訳)を持っていれば、対照することができる。
先日の出来事を時系列で書いてみたい。
(1)日曜日のミサで読まれた聖書(旧約聖書:アモスの預言8, 4-7)のイタリア語訳に、"Quand sara passato il novilunio e si potra vendere il grano? E il sabato, perche si possa・・・"(アクセント記号省略)とあった。
(2)これを見たとき、後ろの方に書いたsabatoという言葉に目が行った。曜日を覚えるときに「土曜日」と習った。
(3)しかし、アモスの預言は旧約聖書に収められているもので、「まさか『土曜日』と訳してはないだろう。『安息日』だよね」と思って、後で日本語訳聖書を確認した。
(4)日本語訳聖書には「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか・・・」と書かれている。やっぱりsabatoは「(ここでは)安息日だよね」とホッとした。
(5)じゃあ辞書にはどうだろうと思って調べると、小学館の「伊和中辞典」(第二版)を調べると、「土曜日」と出てくる!「語形」のところに、古形のsabbatoはヘブライ語(「安息日」が原義)と書いてはあった。しかし、イタリア語聖書にはsabatoで出てきている。
(6)思ったこと。「訳が変」、「訳が気持ち悪い」という感覚を持たれた方はいらっしゃるだろう(私は翻訳家を敵に回すつもりはない!)。確かにsabatoは辞書で見ると「土曜日」なのだ。しかし、「聖書」という文脈で理解するなら「安息日」になる。言葉は言葉単独で存在するのではなく、必ず背景とセットで理解しなければならない(次に面倒なのは?ユダヤ教・キリスト教・イスラム教で「安息日」の曜日設定や概念が異なることである)。
被験者は「私」
言葉を勉強する際に最も大切なことは、「意欲」であろう。その言葉を話す人と付き合ったら言葉が上達すると言われたことがあるが(笑)、どうして勉強したいのかという自分の気持ちを忘れてはならないだろう。
幸いに語学学校が始まっていないので、これからどのように歩んでいくかの記録をとっていきたいと思う。どういう教材でどれだけの時間、どのように勉強したかをできる限り記録していきたい。