母語によって難しいポイントは異なる
イタリアに来てから、「イタリア語はアクセントを大切にする」と度々言われてきた。ほとんど例外なく、一字一字の音を大切にするのが、英語やフランス語との違いだと思う。
しかし、私はどこかで「文脈で判断できるだろう」と高をくくっていた。しかし、大きく打ち砕かれた経験から、音の違い(「r」と「l」、伸ばす・伸ばさないなど)を意識し始めた。
私たち日本人(このように括っていいかわからないが)には、「r」と「l」の違いは難しい。さらに、「v」と「b」の違いも同様である。しかし、日本語は「p」と「b」の音は区別するので、これは私たちには難しくない。
その人の母語が何語かによって難しいポイントは異なる。このことを、いろいろな国から来た人が在籍するイタリアの語学学校で学んだ。
河童が歩く??
あるとき私は10歳の子どもと話す機会があった。子どもは学校で聞いた話を大人にする。これは万国共通のようである。その子は「k」をイタリア語では「カッパ」と言うことを話していた。
「先生は『k』をカッパと呼ぶことを教えるために、カミノのつながりで教えてくれたの」
その時私は、本当にバカだったのだろう。「カッパ」をなぜか「河童」とおきかえ、「カミノ」を「cammino」(「歩行・徒歩」という意味)と「勝手な文脈」で理解していた。頭の中では、「どうして河童が歩くのだろう」と訳が分からなかったのである。
そこで、話を遮って聞いてみた。
すると、当然「カッパ」は「河童」ではなく「k」のこと、そして「カミノ」は「camino」(暖炉)のことであった。
イタリア語では「煙突」のことを「カッパ」(cappa)と言う。つまり、彼女はずっと「暖炉と煙突」の話をしていたのに、私は「河童が歩く」ことだと理解していたのだ。恥ずかしい。
自分の愚かさの紹介をしたいのではなく、このときに知ったのは「camino」と「cammino」の違いである。「m」が1つか2つかで意味が変わってしまう。敢えてカタカナで書くと、「カミノ」と「カンミノ」であろうか。
音の違いで意味が違うイタリア語の例
ちょっとした音の違いで意味が違う言葉を紹介したい。
「アルト」
- alto…高い
- arto…手足
「スオーラ」
- suola…靴底
- suora…修道女
これと似た音で「suolo」は「地表」という意味。
「パパ」
先月末、ローマ教皇(政府がこの表記に変えましたね)の来日で「パパ」と言って迎えた人もいたようであるが、厳密には「パパ」(papà)は「お父さん」のこと。
「教皇」を表す「papa」は「パーパ」と音を伸ばさないといけない。
このあたり、ローマ教皇がどう思って聞いていたか聞いてみたい(笑)。
「アンノ」
年齢を聞くときに、「Quanti anni hai?(君、何歳?)」と聞く。
この「anni」は複数形で、単数形にすると「anno」となる。
「anno」は英語で「year」の意味であるが、「ano」と「n」が1つだと「肛門」になってしまう(さすがにこのあたりは文脈判断をしてくれそうですが、もし「Quanti ani hai?」と理解されてしまうと大変なことになります)。
「カペッロ」と「カッペッラ」
前者の「capello」は「頭髪」、後者の「cappella」は「チャペル」(礼拝堂とか小聖堂のこと)。
「メタ」
「mèta」は「メータ」と伸ばす。この場合は「目的地・目標」の意味。「metà」と書くと「メタ」となり、「半分」の意味。
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これらのイタリア語に触れたとき、私は、日本語の「ハシ」とか「アメ」とか「クモ」を思い出した。そういえば、日本語の読み方も簡単ではない。訓読みの漢字でも送り仮名が違うと読みが変わるものもある(これはたまに日本人でも危ない人がいますが)。
指摘の容赦なさとありがたさ
私がこれらのことを強く意識できたのは、10歳の子と話したことにある。
大人はかしこいので、ある程度文脈で判断してくれたり、直接訂正せずに流してくれたりする。
でも、子どもは違う。容赦なく指摘する(笑)。
その後も会話の中で前置詞や冠詞の使い方が違うと、容赦なく直された。言語を習得する上で大切なのはこの子のような存在だと思う。
私はかつて「子どもの言語獲得」に興味を持ち、いくつかの本を読んだ。結局、母親(または母親に相当する人)が子どもに言葉を教えるときは、母と子の一対一の関係において、対象物に対して二人の視線を一致させ、「これは○○と言うのよ」と教えるわけである(このあたり、今の社会で問題となっている「愛着」の問題とも関連しそうです)。
言語の授業では文法を習う。一応会話の授業もある。でも、やはり集団授業だと「個対多」になるのは当然。
そのため、私は言語の習得においてこのような「お母さん」をたくさん見つけることが必要だと思っている。
容赦なく誤りを直してくれる人(=「お母さん」にあたる人)が身近にどれだけいるか。
私は「教会関係者」という立場でイタリアにいるので、他の学生よりもイタリア語を話す人と触れ合う機会が多く、「お母さん」との出会いが多いことに感謝している。
(とあるキリスト教教会関係者)