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イタリア特派員シリーズ(3)音を大切にするイタリア語

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母語によって難しいポイントは異なる


イタリアに来てから、「イタリア語はアクセントを大切にする」と度々言われてきた。ほとんど例外なく、一字一字の音を大切にするのが、英語やフランス語との違いだと思う。

 

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しかし、私はどこかで「文脈で判断できるだろう」と高をくくっていた。しかし、大きく打ち砕かれた経験から、音の違い「r」「l」伸ばす・伸ばさないなど)を意識し始めた。


私たち日本人(このように括っていいかわからないが)には、「r」「l」の違いは難しい。さらに、「v」「b」の違いも同様である。しかし、日本語は「p」「b」の音は区別するので、これは私たちには難しくない。


その人の母語が何語かによって難しいポイントは異なる。このことを、いろいろな国から来た人が在籍するイタリアの語学学校で学んだ。

 

河童が歩く??


あるとき私は10歳の子どもと話す機会があった。子どもは学校で聞いた話を大人にする。これは万国共通のようである。その子は「k」イタリア語では「カッパ」と言うことを話していた。


「先生は『k』カッパと呼ぶことを教えるために、カミノのつながりで教えてくれたの」


その時私は、本当にバカだったのだろう。「カッパ」をなぜか「河童」とおきかえ、「カミノ」「cammino」「歩行・徒歩」という意味)と「勝手な文脈」で理解していた。頭の中では、「どうして河童が歩くのだろう」と訳が分からなかったのである。


そこで、話を遮って聞いてみた。


すると、当然「カッパ」「河童」ではなく「k」のこと、そして「カミノ」「camino」(暖炉)のことであった。


イタリア語では「煙突」のことを「カッパ」(cappa)と言う。つまり、彼女はずっと「暖炉と煙突」の話をしていたのに、私は「河童が歩く」ことだと理解していたのだ。恥ずかしい。


自分の愚かさの紹介をしたいのではなく、このときに知ったのは「camino」「cammino」の違いである。「m」が1つか2つかで意味が変わってしまう。敢えてカタカナで書くと、「カミノ」「カンミノ」であろうか。

 

音の違いで意味が違うイタリア語の例


ちょっとした音の違い意味が違う言葉を紹介したい。

 

「アルト」

 

  • alto…高い
  • arto…手足

 

「スオーラ」

 

  • suola…靴底
  • suora…修道女


これと似た音で「suolo」「地表」という意味。

 

「パパ」


先月末、ローマ教皇(政府がこの表記に変えましたね)の来日で「パパ」と言って迎えた人もいたようであるが、厳密には「パパ」(papà)「お父さん」のこと。

 

「教皇」を表す「papa」「パーパ」と音を伸ばさないといけない。

 

このあたり、ローマ教皇がどう思って聞いていたか聞いてみたい(笑)。

 

「アンノ」


年齢を聞くときに、「Quanti anni hai?(君、何歳?)」と聞く。

 

この「anni」複数形で、単数形にすると「anno」となる。

 

「anno」英語で「year」の意味であるが、「ano」「n」が1つだと「肛門」になってしまう(さすがにこのあたりは文脈判断をしてくれそうですが、もし「Quanti ani hai?」と理解されてしまうと大変なことになります)。

 

「カペッロ」と「カッペッラ」


前者の「capello」「頭髪」、後者の「cappella」「チャペル」(礼拝堂とか小聖堂のこと)。

 

「メタ」


「mèta」「メータ」と伸ばす。この場合は「目的地・目標」の意味。「metà」と書くと「メタ」となり、「半分」の意味。

 


これらのイタリア語に触れたとき、私は、日本語「ハシ」とか「アメ」とか「クモ」を思い出した。そういえば、日本語の読み方も簡単ではない。訓読みの漢字でも送り仮名が違う読みが変わるものもある(これはたまに日本人でも危ない人がいますが)。

 

指摘の容赦なさとありがたさ


私がこれらのことを強く意識できたのは、10歳の子と話したことにある。


大人はかしこいので、ある程度文脈で判断してくれたり、直接訂正せずに流してくれたりする。


でも、子どもは違う。容赦なく指摘する(笑)。


その後も会話の中で前置詞冠詞の使い方が違うと、容赦なく直された。言語を習得する上で大切なのはこの子のような存在だと思う。


私はかつて「子どもの言語獲得」に興味を持ち、いくつかの本を読んだ。結局、母親(または母親に相当する人)子どもに言葉を教えるときは、母と子の一対一の関係において、対象物に対して二人の視線を一致させ、「これは○○と言うのよ」と教えるわけである(このあたり、今の社会で問題となっている「愛着」の問題とも関連しそうです)。


言語の授業では文法を習う。一応会話の授業もある。でも、やはり集団授業だと「個対多」になるのは当然。


そのため、私は言語の習得においてこのような「お母さん」をたくさん見つけることが必要だと思っている。

 

容赦なく誤りを直してくれる人(=「お母さん」にあたる人)が身近にどれだけいるか。


私は「教会関係者」という立場でイタリアにいるので、他の学生よりもイタリア語を話す人と触れ合う機会が多く、「お母さん」との出会いが多いことに感謝している。


(とあるキリスト教教会関係者)

 

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