「男性と女性」を分け隔てない
英語には「politically correct」という形容詞、「political correctness」という名詞が存在します。日本語にすると「政治的に正しい、政治的正しさ」ということになりますが、「社会的に少数派の人々の人権に配慮した言動」のことを意味します。
日本語でも「ポリコレ」と略された形でカタカナ語になっていますし、英語でも「PC」と短縮した形で用いられています。
英単語のポリコレ
英単語には、語内に「man」を含むものがあります。例を挙げましょう。
- 消防士:fireman
- 警察官:policeman
- 議長:chairman
これらの英単語は、全て性別を問わずに原則的には誰でも就ける職業を意味するため、ポリコレ的観点からすると、「man」を語内に含むことを「良しとしない」ということになります。
この観点からすると、上の例の英単語では、語内の「man」を別の語に代替して表現するのが望ましいことになります。
- 消防士:fireman → firefighter
- 警察官:policeman → police officer
- 議長:chairman → chairperson、chair
ほかにも、元々、男性と女性を別に意味する語が1つの単語に統一されたケースもあります。
- actor(男優)/actress(女優) → actor(俳優)
- waiter(ウェイター)/waitress(ウェイトレス) → server(給仕する人)
- steward(スチュワード)/stewardess(スチュワーデス) → flight attendant(フライトアテンダント)
これらの英単語は、元々、男性を意味するもの(actor、waiter、steward)と、これに女性を意味する接尾辞である「ess」をくっつけたもの(actress、waitress、stewardess)でした。
しかしながら、先程の3つの例(消防士、警察官、議長)と同じく、「俳優、給仕する人、フライトアテンダント」という職業は、性別を問わずに就ける職業であるため、「男女を区別する単語を使う必要がない」と考えられています。
なお、英語にはこんな単語もあります。
- widow(未亡人)/widower(男やもめ)→ ?
先程の「actress、waitress、stewardess」とは異なり、この単語は「widow」(未亡人)という女性に用いる単語に「er」をくっつけて「widower」(男やもめ)という男性に用いる単語ができていることがわかります。
これらの単語は様々な辞書をひいてみても、男女を1つにまとめた単語は現在見当たりません。
英語の代名詞のポリコレ
上記のような英単語に対するポリコレの影響は英文法にも一部影響を与えています。
The professor fails a student on [ ] poor attendance.
(日本語訳)その先生は出席不良で学生を落とす。
空所 [ ] にどのような代名詞を補うべきなのかという問題ですが、昔の英語では「his」が解答に用いられていました。
The professor fails a student on his poor attendance.
しかし、この文脈での「a student」は総称的な意味での「学生」ですから、この「学生」に対して男性を指し示す代名詞である「his」を用いることは「ポリコレ的観点からは正しくない」となるわけです。
ポリコレ的代替案(1)「he」と「she」の併記
代替案の1つとして次のような例が考えられます。
The professor fails a student on his or her poor attendance.
今回の例文では「attendance」の前に用いられているため所有格をとっていますが、主格であれば「he or she」、目的格であれば「him or her」の形をとります。
また、書き言葉の場合の主格に限られてしまいますが、「(s)he」といった表記方法も存在します。
ポリコレ的代替案(2)「they」の使用
また、別の代替案としては次のような例も挙げられます。
The professor fails students on their poor attendance.
基本的な意味は前の英文と変わらずに、「a student」を「students」にし、それを受ける形で「their」を用いることでポリコレ問題を解決することができています。
複数形の名詞を受ける代名詞「they、their、them」は、次のような例文でも見受けられます。
Someone carved their initials on the desk.
(日本語訳)誰かが机にイニシャルを彫った。
例文中の「Someone」という語は「誰か」という意味の代名詞で、「some + one」と表記されることからも分かるように、単数の人物を表します。
意味から考えても「その人物の性別は明白でない」場合に用いられる単語ですから、この語を代名詞で受ける際に「『his』か『her』か?」の問題が生じてきます。
昔の英語では「his」を用いていたところですが、この英文では「their」が代わりに用いられています。
「they」は複数形の名詞を受ける代名詞ではありますが、話し言葉の英語では「someone」や「somebody、everyone、everybody」といった意味の上では単数形の単語を受ける場合もあります。
「男性と女性」から「男性と女性、ノンバイナリー」へ
様々な形のポリコレの中でも「男性と女性」を分け隔てる語句や文法事項に対する影響がこれまでは最も大きく感じられていましたが、この流れが新しい方向へと進みつつあるようです。
メリアム・ウェブスターの辞書の定義を見てみると、次のように記載されています。
they:
used to refer to a single person whose gender identity is nonbinary
(社会的性別がノンバイナリーである単数の人物を指すために用いられる)
「nonbinary」という語の定義も様々な観点から解釈が可能ですが、同辞書では以下のように定義されています。
nonbinary:
relating to or being a person who identifies with or expresses a gender identity that is neither entirely male nor entirely female
(完全に男性でも完全に女性でもない社会的性別アイデンティティを持つ、または表現している人物に関係する、またはそういった人物である)
こういった英語の流れを示す例として、アメリカのカリフォルニア州のバークレイ市では市長と市議会に向けて、以下のような「consent calendar」が作成されています。
要点だけをまとめると、次のようになります。
バークレイ市の条例はgender-neutral(中性的)な表記を用いる目的で、heやsheといったgendered(性別を反映した)な表現を避ける。代わりとしてDirectorのような役職名などの表記を再度文中で用いる際にはthat Directorのように同じ表現を繰り返し表記する。
新しい言葉の出現とこれまでの言葉の消失
「Gender-neutral」な人物を指示する際の方法として、「they」の代わりに全く新しい言葉が用いられる場合もあるようです。
多様化の時代において、様々な人々とお互いに気分を害されることなしにコミュニケーションを行うためには、用いている言語だけではなく、相手の立場や気持ちを理解することが重要であるように思われます。
その目的を果たす上で、既存の語句や文法に新しい用法が加えられたり、全く新しい言葉が生み出されることは歓迎されるべきことでしょう。
映画俳優であるモーガン・フリーマン氏は、かつて黒人として人種差別についてある雑誌でこのように語っていました。
「人種差別をなくすためには人種について語らないという手段しかない」
私なりに彼の言葉を解釈してみます。
「黒人や白人という語が存在している限りは区別、ひいては差別が生じる可能性がある。よって、このような言葉を使わないことが唯一差別をなくすための方法である。」
このように私は捉えています。
新しい言葉を増やすことは比較的容易にできても、これまでに長く用いられてきた言葉をなくすことは可能なのでしょうか?
そのように考えると差別と言葉の関係性は易々と切り離すことのできないもののように感じます。
(鈴木順一)