驚きの質の変化
イタリアに来て間もなく5ヶ月になろうとしている。最初の頃と比べて、驚きの質が変わったことを書いてみたい。
来て間なしの頃は、言葉がわからなくても「人々のふるまいの違い」に驚いていた。私の場合は、日本を基準に考えて、自分にとって日本の方が都合が良いのか、イタリアの方が都合が良いのかといった具合に。
今となってははっきり思い出せないが、たとえば、日本が良いなと思うのは「清潔さ」である。多少はゴミが落ちていることはあっても、ビールの瓶や、プラスチックコップが常に落ちているところを探すのは難しいかもしれない。しかし、ここイタリアでは、朝になると普通に放置されている。
逆にイタリアが良いなと思うのは、昼でも飲むのである。日本で昼食時にビールやワインを飲んだり、昼からバーで(というか昼はバーが開いてない?)飲んだりすると、こう言われる。「昼から飲むなんて」と。でも、イタリアに来て気づいたのは、こちらでは「昼から飲むなんて」という概念はないのだ。昼でも夜でも飲むものは飲む。
日本では、昼からお酒を飲むのは良くないという考えがあるから(最近は少しずつ薄れているかもしれないが)、「昼から飲むなんて」という表現が生まれる。つまり、「昼から飲むなんて」をイタリア語に訳そうと思えば訳せる。しかし、訳したところで、この表現が言いたいことは伝わらないのだ。
言葉を置き換えるだけでは通じない
そろそろ本題に入りたい。前から感じていたことだが、「言葉を置き換えるだけでは通じない」ということだ。
先日、「動物の祝福」という機会に遭遇した。日本でも、犬や猫を家族のようにかわいがっている人がいる。お墓も同じところにという人もいるぐらいである。こちらでも、犬をかわいがっている人は多い。犬をかわいがっている人が目の前にいることを想定しながら読んでほしい。
<登場人物>
- 私(日本人)
- 先輩(イタリア人)
- 屋台のおじさん(イタリア人)
- 犬と犬の飼い主(イタリア人)
私:(飼い主を指して)「あっ、犬のお母さん(mamma di cane)だ」
もちろん、私は、犬は犬で、飼い主は人間であることは百も承知だ。これを聞いた先輩は、こう言った。
先輩:「何言ってるんだ。彼女は人間だ。犬じゃない」
私:(えっ、そこで突っ込むの?そんなのわかってるよ)「いや、お母さんが子どもをかわいがるように犬をかわいがってることを、日本では『ママ』ということがある」
このように説明したら、先輩はなんてバカなことを言うんだとあきれ顔。そこで、屋台のおじさんに言った。
先輩:「聞いたか、日本では飼い主のことを犬のママと言うらしいぞ」
屋台のおじさん:「信じられない」
どうやら、イタリアでこの表現はNGのようである。イタリア人なら受け入れてくれると思ったし、説明したら笑ってくれると思ったのだが、ダメだった。どれだけ飼い主が犬をかわいがっていたとしても、比喩表現だとしても、「犬のママ」は許されないようである。
逆に、日本では思っていても言えないことがあった。
あるホテルのプールで、泳ぐときにはスイムキャップをかぶるよう、指示があった。そこにスキンヘッドのおじさんがやってきて、係のお姉さんに尋ねた。
おじさん:「こういうルールがあるけど、私はどうしたら良い?」
お姉さん:「そうね、確かにそういうルールはあるけど、あなたは大丈夫。ラッキーね」
おじさん:「ありがとう」
言ってしまえば、ハゲをお互い笑いながらスルーしたわけだ。もし日本でこのお姉さんのような対応をしたら、すぐにクレームが入るだろう。
このとき私は、このお姉さんと話をしていて、その間におじさんが質問してきた。なので、おじさんが気持ちよくプールに戻っていってからお姉さんに言った。「日本では、絶対にこういう表現をしてはいけない、ハゲネタは触れない方が良い」と(笑)。そうしたら、「えっ、そうなの? じゃあ気をつけるわ」と応えてくれた。
お姉さんもおじさんも、何が問題かわからないわけである。おそらく、本当のことだから良いじゃないという感じか。
私にはこの2つの例しかないが、言葉の背後にある考えについて参考書は教えてくれない。そしてさらに言うなら、現地に住んでいても現地の人と関わらないと学べない。その意味で、言葉を学ぶなら留学するのが良いなと改めて思った。
(とあるキリスト教教会関係者)