以前も書いたが、イタリア語を書く際に、その内容にこだわってしまうのが私の悪い癖なのかもしれない。テキストにある課題が面白くないと、書く気が起こらない。そこで、日本語の歌詞をイタリア語に翻訳してみようと思い、部分的にではあるが、試みた。
最近、福山雅治さんが作ってKOH+さんが歌った「最愛」を訳してみようと思った。
この曲は、映画「容疑者Xの献身」東宝(2008)の主題歌にもなっているので、主人公である石神の心情を歌ったものである(と私は考えている)。この曲に限らず、普段何気なく聴いている歌詞の内容を、自分が正確に理解できていないことを痛感する。
「容疑者Xの献身」のイタリア語訳に挑戦
そこで、「最愛」を理解するためには石神の心境を理解する必要があると思い、原作の東野圭吾「容疑者Xの献身」文春文庫(2008)を読み返してみた(日本からわざわざ他の荷物と一緒に送って下さった方に感謝)。そこで、心を打たれた箇所があったので、「最愛」を訳す前に、その箇所を訳してみたいと思った。
文庫版の384頁「もっとも、現在の境地に~」から386頁「人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある」の部分なのだが、何回かに分けて訳している。
イタリア人の先生とのやりとりで興味深かったことを2つ紹介したい。
石造りの家には木の柱がない
石神が自殺を試みている場面で、「柱はみしりと音をたてたが、釘が曲がることも、ロープが切れることもなかった」という箇所がある。
日本語話者で、日本に住んだことのある人なら、この光景を容易に想像できるだろう。ロープを手にして、それをかける場所があればかけるし、なければ石神のように柱に釘を打ち、そこにロープをかければ準備完了。
そして、「柱はみしりと音をたてたが」という表現から、そして石神は実際アパートに住んでいたので、建物の作りに「木材」が使われていることは「説明しなくても」わかることである。
私は、この部分を次のように訳した。
il polo ha suonato un po’ ma il chiodo non si è curvaton e la corda non si è rotta.
先生は言った。「何が言いたいのかわからない」と。
そこで、私は「あっ」と気づいたのだ。石造りのヨーロッパの家は、もちろん、あえて設置すれば別だが、部屋の中に「木の柱」は通常存在しない。壁に釘を打つことはできるだろうが、「みしりと音をたて」ることはないのだ。先生にとって、この「音」がどんな音なのか想像することができなかったのである。
先生はこの部分を次のように訳した。
il polo ha scricchiolato un po’ ma il chiodo non si è curvaton e la corda non si è rotta.
(scricchiolareが赤字の動詞の原形で、「キーキーときしる、きしむ」と辞書にはある)
文化の違い
石神がいざ自殺をしようとしたとき、チャイムが鳴った場面である。「台に上がり、首をロープに通そうとしたその時、ドアのチャイムが鳴った。運命のチャイムだった。それを無視しなかったのは、誰にも迷惑をかけたくなかったからだ。ドアの外にいる誰かは、何か急用があって訪ねてきたかもしれない」(下線筆者)とある。
下線部のイタリア語訳を紹介したい。
La causa di cui lui non lo ha ignorato è che non ha voluto disturbare qualcuno. Probabilmente qualcuno che stava davanti al suo appartamento ha visitato lui per un impegno improvviso.
先生の添削が加わって、次のようになった。
La causa che lui non ha ignorato è che non voleva disturbare nessuno. Probabilmente qualcuno che stava davanti al suo appartamento gli aveva fatto una visita per un impegno improvviso.
添削前の私の書いた文を紹介したのには理由があって、文法の間違いや言い回しの訂正(赤字部分)はあるものの、「イタリア人は書いてある内容が理解できないことはない」ということを言いたかったのだ。
英語でも「訪れる」はvisitなので、ついつい私もvisitareという動詞を使ってしまったのだが、イタリア語でvisitareを使うときは、ややかしこまった感があるようだ(英語では??)。そこで、何かちょっと用事があって訪れるときは、〈avere〉 fatto una visitaを使えば良いし、ちょっと訪ねていっておしゃべりするぐらいなら〈andare〉 a trovare 人を使えば良いと教えてもらった。
私は「『ちょっと訪ねていっておしゃべりする』のは用事にならないのか?」と思ったが、イタリア人にとって訪ねていっておしゃべりするのは用事とか目的にならないようだ。
話はずれるが、確かにそうだなと思うのは、私が誰か(Aさん)と話しているときに、Aさんの知り合い(Bさん)が通りがかって、BさんがAさんに話しかけて、そっちで盛り上がっていることはよくある。そしてその後Aさんは、申し訳なさそうに思うことなく、また私と話を続けるのだ。日本人なら、そもそも誰かが会話をしているときに「割り込んで」いくことすら想定しないだろう。
話を戻して、訳の部分であるが、先ほどの「音」以上に先生には理解できなかったのだ。どうして自殺をしようとしているのに、石神が考えたような理由で自殺をやめるのか、理解できないということだ。
ここで私は、「罪」の文化と「恥」の文化の違い、日本では「迷惑をかけない」ことが大切だということを説明する羽目になった(カタコトのイタリア語で)。
先ほどの「音」は木がきしむ音を聞いたことがあれば、それを思い出して理解することはできる。しかし、文化の根本にあることを説明したとしても、先生の表情からは、「あっ、そういう考え方もあるのね」というぐらいの理解であったように思われる。
日本の方が良い意味でも悪い意味でも家族や人のつながりが強いのかもしれない。こちらでは、「子どもが大きくなって家を出て行ったら、後は知らない」という人も少なくないようだ。
この後、ここから家族の問題、少子高齢化の問題…と話は進み、日本で今問題になっている「ひきこもり」の話(先生は「HIKIKOMORI」という単語を知っていた)、さらに「8050問題」を紹介したら、これにはとても驚いていた。
ここで感じたことは、イタリア語はカタコトであっても、会話の内容がなければ話は続かないということだ。こちらがネイティブではないので、ネイティブである相手はこちらの言いたいことを理解しようとしてくれる。それが興味のある話題であればなおさらそうだろう。私にとって、日本のニュースを仕入れるためにも、新聞は欠かせないものであることを痛感した。
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最後に。この訳は「小説」を訳したものだと先生に伝えたはずなのだが、先生はこれを私の物語として捉えていたようだ。
おとといの夕食の後で添削をしてくれたようだが、「あの普段明るい生徒が、こんなことを考えていたなんて信じられない!」と石神を私のこととして理解していたようだ。先生に誤解を与えたこと、先生を不安にさせてしまったことは申し訳なく思っている。だから先生は、最初に「これは誰の話だ」と聞いてきたのだろう。
そこで私が「これは小説で…」と説明することで、和やかな雰囲気に戻ったことも付記したい。
(とあるキリスト教教会関係者)