ロジカルノーツ - logical notes

自分の言葉でものを伝えよう

【けようの哲学コラム】なぜ、人は踊る?(2)

けようです。


今日は、夏至

一年で一番日が長い季節に突入しているとは。

 

冬のコロナから時間がワープして、あっという間にになった気がします。


ぐるぐると地球はリズムに乗って、巡っています。


リズム、リズム。じゅげむじゅげむ。


さてさて、踊りについて考えてみるシリーズ2回目

 

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「踊りは無駄?!」

 


私の話を少し続けたい。


ヒップホップダンス(前回のコラムを参照)を通じ、自分の体と向き合って踊っていく中で、いつの間にか身体だけではなく自分の縮こまっていた心まで、のびのびとするようになった。ダンスを通じて、踊れる身体を手に入れたことで身も心も救われたのだろう。

 

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今でも、家の隅っこ踊る


それは、どうしようもなく、腹が立った時不安な時ヒップホップをガンガンにかけて踊ると(笑)、明日への活力が少しずつ湧いてくる。嫌な事も忘れて、自分自身が誰なのかも忘れて没頭すると、すっきりと何かを脱ぎ捨てたような軽快感がある。


逆に嬉しい事があった時も踊る。すると、ますます嬉しくなる。


ダンスは私の起爆剤として存在しているようなのだ。

 

藝術は嫉妬とか憎悪などのあらゆる情念という一種の生理的なしこりを浄化する「カタルシス」である


福田恆存『藝術とはなにか』(新潮文庫、1959年)


この「カタルシス」(精神の浄化)という言葉に私はハッとした。


自分のもやもやとしたしこりを取りさらって明日への活力を湧かせてくれるもの、これは自分にとってのダンスだった。


私のヒップホップも一応、藝術活動とさせてもらった程で(笑)・・・あらゆる藝術活動が、今まで人間の傍にそっと寄り添って存続してきた訳の一つは、ここにあると感じた。


おおい、カタル~シス(精神の浄化)!よ。


ちょっと余談だが・・・


ヒップホップ時代は、就職活動も始まったくらいだったから、に、そんな無駄なもんやめたら?と。友達にも、そんなことしてる場合じゃないと言われ。


それももっともな意見で、私はプロになるわけでもないし、ただ無意味で時間の浪費に映ったのだろう。やるべきことが他にあるのにと。


別に、ダンスが無くても、生きてはいける。

踊りそのものには、何の生産性もないから。

踊りをして、世界が変わるわけではない。瞬時に何かを生産できるわけでも無い。

踊りが無くても、生きてはいけるけど、

楽しくとか、溌溂とか、そんな風では無くなってしまいそうである。


この、生産性がないこと、つまり無駄なこと、ってダメなことなのだろうか?


無駄、無意味って本当にダメなことなんだろうか?

 

これがあるからこそ楽しい時間がある。


人生の隙間的なことはダメなものでは無く、何か人生の潤滑剤のような気がしてくる。


ときに、「隙間」「余白」は、歯車を回すために必要だったり、会議でわざと遊びの部分を設けるいいアイデアが出ることもあるから。

 

「踊りを持たない民族はいない」

 

言葉を持たない民族はいても、踊りを持たない民族はいない


三浦雅士『考える身体』、NTT出版、1999年、p.53


のだそうだ。


これを聞くと・・テレビで各国の先住民が踊っている映像が眼前に浮かんでくる人が多いのではないか。

 

日本では中世の頃から田植えの労を慰めるために(諸説あるらしいが)田植えの際に歌舞する伝統が引き継がれてきたりと、太古の昔から踊りは存在しており。


確かに、日本中どの地域も踊りがそれぞれに根付いている。

河内音頭や、花笠音頭に、阿波踊りエイサー


神社で結婚式をあげた時も巫女さんが舞ってくれて、

そして最近テレビで見た、ラグビーチームオールブラックスハカ


それほどにまで、踊りは普遍的な気がする。


踊り言葉以前のものだとしたら、踊りの後に言葉が生まれたのだろうか?

 

言葉ではない、身体の動き。


身体というものがあるからこそある踊り

気持ち祈り身体を通して表現する。

その身体の動き自体は、動物とか何かの真似だったり、直接的な意味があったりなかったりだが、身体の動きに乗せて、気持ちものせていくような。


それが研ぎ澄まされ合理的になったのが言葉なのか?


踊らなくても、言葉で伝えれば済むこともあるのだろうが、言葉だけでは表現として何か味気ないこともあったり。


人にものを伝えるという点だけでは、踊りはやっぱり無くてもやっていける気もするし・・。


でもそれは現代人だからであって?


太古の人からしてみれば、もっと重要なものだったのだろうか。

 

「踊っている時」

 


踊っている瞬間について自分の状態を考えた時に、


現実の世界とは切り離されていた世界没頭していたり。

現実の自分からも抜け出して自由になっていて。


体を思うようにのびのびと動かすことが単純に気分が良く、純粋に楽しいことであり。


このように踊っている時のことは、非現実脱自自由楽しいという言葉が似合う。


そしてこんな楽しいこと、自由なこと、生産性がないことは、“遊び”ということとも通じてくる。


ダンスって“遊び”でもあるのかな?

遊ぶように踊る。踊って遊ぶともいうし。


遊びといえば・・・、“遊び”についてとことん考えた人物がいた、

フランスの思想家ロジェ・カイヨワ


ここで私の不器用な思考を深めるために次回フランスのおじさんに登場いただくことにしよう。


(けよう)

 

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