こんにちは。
当サイト管理者の吉崎です。
主な仕事は、大学進学希望者を対象とする受験サポート。「現代文」などの学科をすることもありますが、基本的には「小論文」や「面接」を担当しています。いまのスタイルの生活になったのが2009年。気づけば、すでに干支をひと巡りしている状態になりました。
担当科目の特性もあって、少人数レッスンや個別指導がほとんど。そのため、仕事をしている時間の大半が受験生との会話。もう10年以上、そんな生活をしています。
今回、受験生の「孤独感」をテーマに私見をまとめてみようと思い、この文章を書いているわけですが、まずは、そのきっかけについて言及させていただきます。それは、当サイトのシリーズ記事、「4浪目の受験ドキュメンタリー」です。
4浪目の受験ドキュメンタリー
執筆者のIくんは、高校を卒業してからの2年間、塾に通って受験勉強に専念。3浪目の昨年度は「宅浪」で頑張ることになったのですが、その厳しさに直面し、「受験」自体を諦めてしまいました。その後、いろいろあって、再度、大学受験に挑戦することになり、現在、勉強記録などを当サイトで公開しています。
- 勉強の方針、計画を決める
- Iくん、頑張る
- やってきたことを振り返る
- 文章にして、吉崎に報告
- 記事化して公開
- ミーティング・話し合い(1に戻る)
おおまかに言えば、こんな流れです。
この6の「ミーティング・話し合い」では、(ほぼほぼ雑談のようなものではありますが、)次の5項目を話題にするようにしています。
- どんなことをした?
- どう思った?
- なにができて、なにができなかった?
- これからどうしたい?
- とりあえず、どうすればいい?・どう思えばいい?
このような会話のなかで、メインテーマになることが多いのは、やはり「気持ち」の問題。
- 「受験のプレッシャーをひとりで抱え込むことになり、心はどんどん勉強から離れていってしまいました」(「4浪目の受験ドキュメンタリー(1)」より)
- 「ひとりで受験勉強をし続けるのは、めちゃくちゃ厳しい」(「4浪目の受験ドキュメンタリー(1)」より)
- 「勉強計画を立てても、自分ひとりでそれを守ることはとても難しいです」(「4浪目の受験ドキュメンタリー(2)」より)
これらは「受験」を断念した3浪目を振り返ったIくんの発言ですが、目立つのは「ひとり」という言葉。また、Iくんは「『宅浪』のしんどさの要因」として、最初に「自分が前に進んでいるのかが見えにくいこと」を挙げているのですが(「4浪目の受験ドキュメンタリー(2)」)、これも「ひとり」だからこそではないかと思われます。
宅浪生に限らず、受験生というものはどうしても「孤独感」を覚えがちです。ただ、「宅浪」の場合、常に「ひとりである」という感情と向き合うことになります。そのしんどさについて語るIくんの言葉は、受験生一般にとってはもちろん、その寄り添い者である保護者などにとっても有用なものではないでしょうか。
仕事上、私は、受験生からその孤独感についての話を聞くことがたくさんあります。とはいえ、「仕事上」のことですので、宅浪生の話を聞く機会はそれほど多くはありません。また、私自身、大学受験と大学院受験の際に「宅浪」を経験したのですが、このときの感情は当事者としてのものでしかなく、また、当時の職場や仲間に恵まれたという思い出補正もあって、個人的な昔話の域を出ないエピソードしか持ち合わせておりません。
こういった事情もあり、私にとってIくんの話は程よい客観性を有するものであり、「受験生の孤独感」について考えされられることも多かったため、今回、文章にしてまとめてみようと思った次第です。
「孤独」ってなに??
「孤独」という語は、日常的に使用するものであり、だからこそ、その意味内容がぼんやりとしてしまいます。だから、まず、私は思考の手がかりとして「孤独=ひとりぼっちであること」と言葉にしてみたのですが、よくよく考えてみると、ずっと無人島で暮らしてきたわけでもありません。これまで個人的に深く孤独感を覚えたこともあるにはあったのですが、そのときでさえ、客観的事実として「ひとりぼっち」であったことはありませんでした。
そこで、もう少し正確な意味を確認してみようと思い、とりあえずGoogleの検索ボックスに「孤独とは」と入力してみました。
「デジタル大辞泉」には、「仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。」とあります。
「受験生」、もう少し踏み込んで言えば「『受験』を選択することが状況的に可能な人」を対象にすると、「仲間や身寄りの不存在」という条件に該当する人は多くないでしょう。そのため、ここでは「孤独=思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと」と捉えてみることにします。
「孤独」は主観的なもの
「思うことを語り合ったり、心を通い合わせたりする人」が存在するか否かは、非常に主観的なものです。本人が周囲にいる人を見て、思うことを語り合ったり、心を通い合わせたりする関係にあると感じるか否かの問題です。同じ時間に同じ場所に誰かがいたとしてもそれだけでは足りず、そこに渇望感や寂寥感が生じたとき、人は「孤独」を感じるということでしょう。
学校や塾・予備校に通っている人の周囲には、事実としてたくさんの人が存在しています。「宅浪」であったとしても「受験」を選択できる状況であれば、家族など近しい関係にある人がいるはずです。しかし、「思うことを語り合ったり、心を通い合わせたりする」ことができていないと寂しさを感じるならば、(少なくともその瞬間は)「孤独である」と言えます。
では、受験生が「思うことを語り合ったり、心を通い合わせたりすることができている」と感じるのは、どのようなときなのでしょうか。
「語り合いたい思い」はなにか??
受験生ほど「自分のニーズ」に直面する立場はあまりないでしょう。
- 希望する職業に就くため
- 興味あるものを学ぶため
このような、自分の価値基準に照らした目的はもちろん、
- 社会的ステイタスを得るため
- 周囲からの期待に応えるため
こういった他者評価を目的とするものであったとしても、結果として、それを望んでいるのは「自分自身である」わけですから、いずれにせよ「自分のニーズ」が根底にあります。
「受験」というものに意識が向いていればいるほど、そのための取り組みに費やす時間は増えますし、たとえ趣味や息抜きの時間であっても「勉強のこと」が頭のどこかに残ります。これが「なんのために勉強しているんだろう」といった思考に結びついたとき、「自分のニーズ」を直視することになるのです。
勉強のことだけを考えている場合、たとえば英語の文法や数学の公式のような、学習項目についての話をする相手がいれば、その人を「思うことを語り合ったり、心を通い合わせたりする人」と認めることになるかもしれません。
しかしながら、ほとんどの受験生は「受験科目を勉強したいから勉強している」というわけではなく、「進学したいから勉強している」のです。そのため、学習項目の話をする相手がいたとしても、「思うことを語り合えているなあ・心が通い合っているなあ」とはならないと思われます。
「なんのために勉強しているのか・なんのために我慢しているのか」といった「自分のニーズ」が受験生の頭の大きな割合を占めているならば、それをわかり合える相手がいたとき、「思うことを語り合えている・心が通い合っている」となるのではないでしょうか。
しかしながら、そんな相手はいない。あるいは、期待してはいけないと思います。
「自分のため」の孤独
先にも述べましたが、受験生の根底には「自分のニーズ」があります。それは受験生に限った話ではないでしょうが、受験生に関しては、常に「自分のニーズ」と向き合わざるを得ないという点で特殊な状況にあります。
要は、受験生は「自分のため」に勉強しているのです。結果として「誰かのため」になることはあるかもしれませんが、あくまで「自分のためであると同時に~」という関係にすぎません。
「自分のニーズ」についての語りを心よく聞いてくれる人は非常に限られます。誰しも、他人よりも自分のほうが大切であって、表面上はともかく、他人のことについて親身に考える余裕があるわけではないからです。
良好な関係の家族であれば、聞いてくれたり、考えてくれたりするかもしれません。ですが、「受験」、特に大学受験となれば、ある意味で「家族から離れる」ための営みなので、家族に対して「語りにくさ」を覚える受験生も少なくないでしょう。
親身に話を聞いてくれる相手が見つからない。聞いてくれそうな人には、ある意味で「さよなら」を告げるようなものなので話しにくい。
「自分のニーズ」を自分自身で受けとめ、引き受ける。これから「自分の人生」を生きていくために必要な精神性を獲得する、そんな通過儀礼的側面が「受験」にあるように思えてなりません。
こういった考えもあって、Iくんに対してもそうですが、受験生と接するとき、私は「どうしたい?」と頻繁に聞くようにしています。これが受験生の孤独感にどう作用するのかはわかりません。ですが、「あ、そういうこと考えてたんだ」や「そういう価値観があるんだね」といった、受験生の個性に触れられる瞬間があり、その人に合わせた言葉を考えるきっかけにはなっています。
「自分」に向き合おうとしても……
「自分のニーズ」のためのことをしている。
自分のためのことを第一に考えて行動する。
こういった意識をもって、「いま、やるべきこと」に集中するのが受験生にとって得策であると思うのですが、現実にはそうそううまくいきません。
孤独と向き合う時間にしようと考えても、頻繁に「邪魔」が入るからです。
それは「周囲の人」の存在。
受験生の置かれている客観的状況は「ひとり」ではありません。周りを見渡せば、交流の有無はともかく、たくさんの人がそこにいます。そして、目に入ってくる人たちには「思うことを語り合ったり、心を通い合わせたりする人」がいるように見え、それと自分を比べたとき、より一層、自身の孤独感が際立ってくる……。
「自分のニーズ」を引き受けるしんどさ。これはあくまで本人だけのものであり、だからこそ、「自分だけが苦しんでいる」や「なんで、私だけが……」という意識を招き、その個人的苦しみと無縁の周囲の人を見たとき、気持ちが滅入ってしまう。10年以上、(言い方は人によって異なりますが、)このような話を私は聞き続けてきました。
「お気楽そうに見えるかもしれないけど、みんなそれぞれ頑張ってるんだよ」的な話をしてみたところで、まったく響きません。当たり前です。他人が抱えているかもしれない苦悩について、真に実感できるわけではありませんので、「みんな、しんどさを抱えている」と言われても、「あ、そう……」となるだけでしょう。私だってそうです。
周囲の人を、どのように受けとめていけばいいのか。
これが、受験生が孤独と向き合う鍵になると思います。
周りと比べてしまう
さて、Iくん。
4浪目の今年、昨年度と引き続きの「宅浪」なのですが、昨年は「受験」自体を諦めてしまったので、昨年度はノーカウントと考えたいところ。今年度、「受験」までたどり着いたときに「宅浪」を完遂できるかたちです。
これまでの反省の時間もしっかり設け、腹を決めて意気込み満タンで頑張っていたのですが、そんなIくんですら、5月の連休中にモチベーションの危機が訪れました。
長らく受験対策の現場におりますと、「受験生あるある」のようなものであるのですが、ゴールデンウィークは受験生にとっての最初の精神的山場。「世間がうわついたムードの中で……気が滅入ってしまう」(「4浪目の受験ドキュメンタリー(4)」より)のです。
- (5月)二週目が気持ち的に一杯一杯になってしまい、勉強が進められませんでした。
- 受験や進路のことで精神的に疲弊している身としては、辛いものがありました。どこか自暴自棄な気持ちになり、勉強から逃げてしまいました。
Iくんのこの発言から始まる「4浪目の受験ドキュメンタリー(4)5月上半期」ですが、そこで「気が滅入ってしまう大きな要因に周りと自分を比べてしまうことがある」と自己分析。
最終的に、Iくんは、次のような考えに至りました。
「僕の行き着いた考えが『人と違うゴールを目指してるんだから、道中、人と違うのは当たり前じゃない?』でした。……自分で考えて選択した事に関しては、周りと比較するしないではなく、そもそも比較できないものであると理解しました。」
周りと比べてしまう気持ちを抑えるうえで、このIくんの考え方は、理想的な気の持ちようだと思います。
比べてしまう「誰か」には架空の自分も含まれる
「受験生は孤独である。しかも、その苦しみとは無縁の人たちが目に入る。」
ということを述べてきたわけですが、それだけで「孤独と向き合う受験生」のしんどさを表現できているとは言えません。
多くの受験生は「我慢するのが辛い」と言います。「なにを我慢しているの?」と聞けば、「したくない勉強をしている」や「したいことができてない」と答えます。
仕事上、頻繁に行うこのやりとり。あくまで「個人的に」ではあるのですが、受験生のその語り口のなかに、どこか「周囲の人と比べるしんどさ」と同様のものを感じるのです。
「周りと比べてしまう」を「誰かと比べてしまう」と捉え直すと、そこには「他人」だけでなく「自分」も含まれてきます。「自分」といっても「架空の自分」です。
「いま受験勉強をしていない自分」
受験勉強していて「我慢しているなあ」と感じるとき、前提として「受験勉強をしていなければ我慢しなくてもよかったこと」を意識しているはず。その我慢をしていない「架空の自分」を比較対象とする「誰か(=架空の自分)と比べるしんどさ」を覚えているのではないでしょうか。
これは、「受験」を選択したからこその悩みではあるのですが、浪人生の場合には「すでに合格していて受験勉強しなくてもよい自分」も「架空の自分」として現れてきます。
実は、Iくんも、周囲の人と比べることで落ち込んでしまった5月を乗り越えた後、しばらくは順調に進んできたのですが、7月、気持ち的に不安定な状態に陥ってしまいました。
「年齢で差別されるんじゃないだろうか、4浪では就職できないんじゃないだろうか」という悩みが大きくなり、受験勉強とは違うところで消耗してしまう状態。私は、このIくんの言葉に触れ、「年齢差別とは無縁のうちに合格していた架空のIくん」が「いまのIくん」を攻撃しているように感じました。
このことについて、4浪目のIくんは、「厄介なのが、以前も同じことで悩み、一度前向きになれたにもかかわらず、また同じことで悩み出すことです」と語ります。
ただでさえ受験勉強で消耗しているのに、それ以外のところでさらに消耗してしまう。そして、その事態は何度も何度も起こり得る。
このしんどさと、受験生はどのように向き合っていけばよいのでしょうか。
選択しなかった「しんどさ」を想像する
「周囲の人」と「自分」を比べるのがしんどさの要因ならば、(とっても難しいことではありますが、)「周囲の人を見ない」という対処法があります。他方、「我慢をしていない架空の自分」と「いまの自分」を比べたときに覚えるしんどさは、どうしても比較対象が「自分」であるため、「見ない」や「意識しない」といった対処ができません。
ところで、有名な英語のことわざに「The grass is always greener on the other side of the fence(隣の芝生は青い)」があります。
他人のことは、常に(always)よく見えてしまう。これは、他人の抱えている苦労が見えにくいからではないでしょうか。そして、それは、ことわざにもなるくらい、普遍的なものの見え方なのでしょう。
「しんどい思いをしている自分」と「そうでない(そう見えない)他人」を比べる。
滅入っていると、どうしてもこのような状態になり、より一層落ち込んでしまいます。ですが、なんとかそこを堪えて、Iくんが5月の連休後に言語化した通り、「そもそも比較できないものである」と考えたいところです。
自分にとってのしんどさは自分だけの特別なものであり、それは他人にもあてはまる。内容は違えども、しんどさを引き受けていること自体はみんな同じ。だから、「なんで自分だけ……」と思わないでいたいものです。
そして、このことは「架空の自分」についても同様だと思います。
「受験」をしないことを選んだ場合でも、すでに「受験」を終えた場合であったとしても、なにかしらの「『しんどさ』を引き受ける」ことに違いはありません。
Iくんについて言えば、「2浪目までに不本意なかたちで進学した場合」や「3浪目の『受験』断念を経て、再チャレンジしない場合」において、また、「そもそも『受験』せずに高校卒業後に就職した場合」において、それぞれの場合における「しんどさ」は発生したはずです。さらに言えば、仮に受験勉強がうまくいって希望する大学に進学できていたとしても、その状況に応じた「しんどさ」を感じたことでしょう。
そんな「架空の自分」が引き受ける悩みと「いまの自分」のそれとは、Iくんの言葉を借りて言えば「そもそも比較できないもの」です。
自分のニーズと向き合うのは「孤独」な営みです。真の意味で誰かと共有できるものではありません。ですが、それは「自分の人生」を選択した結果であり、そのときに感じるしんどさも「いまの自分が選択したもの」と言えるでしょう。
であれば、「いまの自分が選択しなかった『しんどさ』」もあるはずです。それに悩み苦しみ耐え抜いている「周囲の人」や「架空の自分」を想像することで、「殊更に『いまの自分』をネガティブに捉えなくてもよい」という心持ちも生まれるのではないでしょうか。
「受験生の孤独」との向き合い方
受験生はかなり特殊な状況にいます。
学科の勉強以外にも、出願の準備や受験戦略の策定。こういった作業は、必ずしも「したいこと」そのものではないでしょう。これらに加え、それなりの長丁場になるわけですから「気持ちを保つこと」も重要課題です。
こういった過程において、受験生には「『自分のニーズ』と向き合う孤独感に対処する」という隠れミッションがあります。多くの人にとって、これは初めての経験になるのではないでしょうか。
今回、「『受験生の孤独』との向き合い方」という大層なタイトルを設定して書いてきましたが、正直なところ、一概に「どうすればよいのか」はわかりません。いや、むしろ「『わからない』と考えるべきだ」という主張をもっています。
「自分のニーズ」の個別性。
これを念頭に置くと、本人でない以上は「わからない」と言わざるを得ず、「受験生の孤独」との向き合い方も含め、「どうしたいかを本人によく聞いてみる」しかできない。
10年以上、プロ予備校講師として生活の大半を受験生との会話に費やしてきた結果、こうした考えが私のなかで強くなっていきました。
「孤独」と向き合うべきは、あくまで受験生本人であって、寄り添う側は、そのニーズを傾聴したり、選択肢について情報提供したりするくらいしかできません。過度な「すべき」論の押しつけは、受験生から「孤独に立ち向かう力」を奪うようなものでしょう。
「『受験生のニーズ』を聞く」ということは、つまるところ「『どんな人生を選択したいのか』を聞く」ということだと思います。これには「どんな『しんどさ』を引き受けたいか」も含まれます。
「なにを選んで、なにを選ばないのか」を、もっと言えば、「なにを選びたくて、なにを選びたくないのか」を受験生本人が言葉にすること。これが「受験生の孤独」と向き合う鍵になるのではないでしょうか。
成長とは、それまでの自分に「さよなら」することだと思います。そんな旅立ちの時、安心して「行ってらっしゃい。君に幸あれ」と言えるような、そんなかかわりをしたいと思います。
以上、長々と書いてしまいましたが、ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
(吉崎崇史)