ここでしか学べないもの
高校三年生になると、希望する進路を定めなくてはいけません。
ぼくの通っていた学校は国公立大学合格至上主義で、私立大学を受験することは認めないような雰囲気でした。幼きぼくはその考え方に洗脳されていたので、志望大学は国公立大学からしか選ぼうとしません。
さらに、当時思考の偏っていたぼくは「日本で唯一ここでしかできないことが学べる学校にしか行く意味がない」と考えていました。
当時のぼくの思考に基けば、例えば経済学を学ぶなら東京大学にしか行く意味がない、という考え方でした。「偏差値で言えば最上位である東京大学の経済学部に進学する以外、その他の大学の経済学部に進学する意味などない」と考えていたわけです。
今となって考えれば、ただの無知蒙昧です。
偏向的なぼくが選んだ道は、大阪外国語大学、現在の大阪大学外国語学部でした。この大学では英語やフランス語、ドイツ語といったメジャー言語にはじまり、モンゴル語やミャンマー語、ロシア語などのいわゆるマイナー言語まで、合計で26の言語を専攻として学べました。
受験の時点で専攻言語を選択しなければなりませんでしたが、もちろん英語や中国語、アラビア語といったメジャー言語を選ぶはずもなく、ぼくが選んだのはスウェーデン語でした。
理由は一つ、大阪外国語大学でしか専攻としてスウェーデン語を学ぶことができなかったからです。
「申し訳ない」
高校三年生になり受験勉強が始まるわけですが、勉強に対するやる気のないぼくのエンジンは温まりません。
全国統一模試の結果は当然ながら毎度E判定(合格率10%未満)です。このE判定は10月末まで続きました。ここで初めて受験勉強に本腰が入りました。
母との三者面談の場で、担任の先生から「浪人する覚悟はあるの?」と尋ねられたことを覚えています。浪人せずに大学に合格したいという気持ちがあったのはもちろんですが、それよりも母や父に学校に行かせてもらい塾にも通わせてもらっている立場で、「申し訳ない」と感じる気持ちの方が強く、本気の勉強を始めました。
10月半ばからセンター試験までの4ヶ月くらいに渡り、毎日3、4時間の睡眠時間を除いて、ずっと勉強を続けました。結果、合格することができました。当時のぼくにとっては、人生で一番勉強に没頭した数ヶ月でした。
「英語」は得意教科でなかった
この受験期の英語の学習について書くとすれば、とりわけて特殊なことはしていません。
いわゆる「大学受験英語」を学んでいたわけで、英文を日本語に訳すことや文法問題を正しく解けるようにするための練習を重ねていました。「受験英語」には当時でもたくさんの参考書が販売されていましたので、そのようなテキストを繰り返し勉強していました。
外国語大学に入学できた立場ですが、センター試験の英語の成績は80%くらいでした。この点数は一般的に見れば高いかもしれませんが、おそらく外国語大学の合格者の平均から考えると低い部類に当たるかもしれません。つまり、当時のぼくにとって英語は得意教科でもなんでありませんでした。
リスニング対策
一つだけ少し変わった英語学習をしていたとすれば、リスニング対策についてです。
ぼくが高校三年生だった当時、センター試験にはリスニングが課されていませんでした。しかし、受験校の外国語大学では個別試験(二次試験)でリスニング問題が出題されていました。
学校ではリスニング対策などしてもらったことがなかったので、本屋さんでリスニングの問題集を探しました。当時はリスニング対策の市場が全くといっていい程に存在していなかったため、リスニングの対策教材は大きな本屋さんでも2、3冊しか並んでいなかったと記憶しています。そのうちの一冊を購入して自分なりのリスニング対策を開始しました。
ぼくが行ったリスニング対策は、CDに録音されている英語音声をひたすら聞き取って文字に起こす行為、いわゆるディクテーションです。
なぜそんな勉強方法を選んだのかわかりませんでしたが、浅はかなぼくは「全部聞き取れるようになれば大丈夫だろう」くらいにしか考えていなかったのだと思います。この練習によって英語を聞く耳を養いながら、演習として洋画を吹き替えなしで観ることを始めました。
このように書けばかっこよく聞こえるかもしれませんが、実際に題材として扱っていた映画は何度も日本語吹き替えで観たことがある洋画で、あらすじもほとんど完璧に覚えているような映画でした。あらすじを予め知っているので、あまり内容や映像を気にかけることなく、英語を聞き取ることに集中することができました。とはいえ、実際に聞き取れていたのは本編のうち20%にも満たなかったと思います。
このように、ぼくの高校時代の英語学習はセオリーも何もあったものではなく、ただがむしゃらに自己流の学習を貫き、一応は「現役大学合格」という目標を達成できたわけでした。
(鈴木順一)