今年は、コロナだけでなく、バッタの大量発生(蝗害)による食糧危機も大きな話題になっています。国連食糧農業機関(FAO)が動いている等のニュースに触れるたび、「サバクトビバッタめ・・・コロナのタイミングじゃなくてもいいじゃないか」と思います。
歴史的に、人類に大きな被害を及ぼした蝗害。聖書にも記載があるとのことで、ロジカルノーツに多くの寄稿をしてくださっている「とあるキリスト教教会関係者」さんに聞いてみました。
今日は、イタリア語の学習という観点ではなく、ロジカルノーツ側から依頼のあった内容について書いてみたい。とはいうものの、私は聖書の専門家ではないし、自然科学のこともよくわからない。なので、「まぁ、そういう考え方もあるのか」というぐらいで読んでほしい。
少し前から、「バッタの大量発生」がニュースで報じられた。今のところ、日本への直接的な影響はなさそうだが、アフリカや中東では既に被害が生じているようだし、バッタの大群が日本にやってくる可能性もある。また、日本が食糧の輸入をしていることを考えると、この問題について考えても良いのかもしれない。
とはいうものの、私自身はあまりピンときていない。それは、イタリアに住んでいることもある。そして、コロナの時もそうだった(自分の想像力の乏しさが原因なのだが)。ロックダウンをして初めてコロナの影響を感じた。同じように、「バッタの大量発生」によって自分の生活に何か影響が出て初めて、ピンとくるのだろう。
さて、「バッタ」の大量発生がニュースになっている。そこで、聖書にもそんな話があったんじゃないかということで、今回依頼を受けたのだが、聖書には「いなごの災い」についての記述がある(出エジプト記、10章)。「いなご」と「バッタ」の違いがどうだとか、細かいことはわからないが、少なくともイタリア語の聖書には le cavallette(複数形)として書かれていて、この意味は「バッタ・イナゴ」となっているので、「いなごの災い」は「バッタの災い」と考えても良さそうである。
「いなごの災い」が書かれている前後の文脈
確かに、聖書の中に「いなごの災い」についての記述はある。しかし、この部分だけを取り出して論じるのは賢明ではない。なぜなら、出エジプト記の「いなごの災い」が書かれている前後には、他の「災い」についての描写もある。簡単に紹介したい。
- 7章14-24節 血の災い
- 7章25-8章11節 蛙の災い
- 8章12-15節 ぶよの災い
- 8章16-28節 あぶの災い
- 9章1-7節 疫病の災い
- 9章8-12節 はれ物の災い
- 9章13-35節 雹の災い
- 10章1-20節 いなごの災い
- 10章21-29節 暗闇の災い
- 11章1-10節 最後の災い
このブログの読者の皆様は驚かれるかもしれないが、災いはいなごだけではなかったのだ。よくもこれだけの災いを起こしたなと思うぐらい、たくさんの災いが起こっている。
では、これは何のためだろうか。そこを理解しないといけない。
全てはエジプトの王ファラオが、主が選ばれたモーセとアロンの言うことを聞かなかったからである。このように書くと、ファラオが悪者になってしまう。ファラオはどれだけ頑固なんだと言いたくなるだろう。ファラオは意固地になったのだろうか。
同じ『出エジプト記』7章3節には、主のことばとして、「わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡をくり返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。…わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」と書かれている。
つまり、ファラオの心がかたくななのも、主がなさったことなのである。
「いなごの災い」の箇所の要約
『出エジプト記』10章1-20節では、エジプト中にいなごが満ち、地のあらゆる草・木の実を食い尽くしたと書かれている。そこで民の要望を聞いたモーセが主に祈ると、主は風によっていなごを吹き飛ばして、エジプトにいなごは残らなかったと書かれている。
しかし、ここで大切なのは、「いなごがいなくなって良かった」ではなく、相変わらずファラオの心は頑なだったということである。
これらの箇所から考えられること
聖書における「災い」(災いだけに限らないが)や出来事の中には、神さまからの何らかのメッセージが含まれていると理解したとき、見方が少し変わってくるのではないだろうか。
例えば、雨が降ってないから雨が降るようにお祈りして、もし雨が降ったら「神さまは、私たちの祈りを聞いてくれた、ありがとう」となり、雨が降らなかったら「祈りが足りない」とか、「罪深い人がいるから祈りを聞いてくれない」とか、「神はいない」とかそういう単純なことでもない。
私たちキリスト者にとって、何かを祈ってそれをかなえてくれるのが神ではないのだ。読書会の記事でも書いたが、キリスト教の救いは、「神との関りを断ってしまった人間が、再び神と結ばれる」ことなのだ。
もちろん誰だって病気にはなりたくないし、不幸にはなりたくない。しかし、誤解を恐れずに言うなら、いくら祈っても病気になるときはなるし、不幸になるときはなるのである。そのときに、「祈りが足りない」とか「神はいない」と考えるのは、私は違うと思う。
ざっくり言ってしまうなら、「自分が〇〇のために祈って、△△のときにそれをかなえてもらう」と思うなら、それは自動販売機で商品を買うようなものである。自分が神を支配しようとしているから、このような考えが生じるのだ。
「結果が自分の願った通りではないかもしれない」し、「神さまからのメッセージがいつわかるのかもわからない」。当然人間の視点から見れば不安になる。しかし、神さまの視点で見たとき(私たちにはわからないのだが)、必ずそれは訪れるのだ。
不安の中にある人に聞かれると、私は大抵次のように答える。
もちろん、病気や苦しみはないにこしたことはありません。でも、キリスト教の救いは病気や苦しみがなくなることではないわけで、神さまと共に歩むことでしか安らぎは得られないし、その安らぎは神さまが必要と思われたときに、神さまのやり方で私たちに与えられるのです。たとえそれが生きている間ではなかったとしても。
私たちは大きな災害があったとき、神さまにその理由を求めたくなる。
2011年の東日本大震災の時に、ある女の子が当時のローマ教皇ベネディクト16世に質問した。ベネディクト16世は「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えは見つからないかもしれませんが、神はあなたと共にいます。私たちが気づいていないとしても、神は私を愛しています。」と答えたのは印象に残っている。東日本大震災だけではなく、コロナ禍も、「神の天罰だ」と考える人もいるようである。
しかし、これにも私は異を唱えたい。神は愛の存在であって、罰する神ではないのだ(結論だけを述べます)。
『出エジプト記』の中のたくさんの災いや現代の災害で、確かに多くの人の命が奪われ、多くの人が苦しんでいる。しかし、苦しんで悲しんでいるのは私たちだけではなく、神さまも同じ思いをなさっていると、私は信じている。そして必要な時に、必要な方法で、私たちが何かに気づいて変わっていかなければならないのだろう。
話は大きくずれてしまったが、「バッタの大量発生」で食糧問題がどうこうという話になってはいる。「これを防ぐためにどうしよう」とか、「〇〇が足りなくなったらこんなに大変なことが起こる」とか言われている。
しかし、それは今までの自分の生き方を守るという考えが前提になっているのではないだろうか。そうではなくて、私は「今できることは何なのか、〇〇が足りなければ××で代わりをできないか」と考えるようにしている。
今まで自分が捕らわれてきた価値観からの解放という観点でこの問題を見たとき、きっと違う結論が見えてくるのではないだろうか。
(とあるキリスト教教会関係者)