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ゾロアスター教・ユダヤ教・キリスト教

読書会「マクニールの『世界史』を読む」第3回目の発表資料がイタリアから届きました。作成者は「とあるキリスト教教会関係者」さん

 

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今回の範囲は「中東のコスモポリタニズム 紀元前1700ー500年」で、次のように、現代社会を考える上で重要な項目が多く含まれます。

 

  • 戦車戦法の技術
  • 中東の三帝国
  • 鉄器時代
  • 鉄のおよぼした影響
  • 騎馬の革命
  • 紀元前559年から330年までのペルシャ帝国
  • 帝国統治の技術
  • アルファベット文字
  • 一神教の出現
  • 初期ユダヤ教
  • ゾロアスター教


この中でも特に注目したいのが「宗教」の話。世界史を勉強する上で、国際社会について考える上で、宗教についての考察は欠かせません。今回の範囲は、「宗教」という人の内面に深くかかわるものを考えるのに適していますので、その教養を有する「とあるキリスト教教会関係者」さんに発表資料の作成をお願いしました。


統治のあり方などについては、これまでと同様、読書会当日に参加者各自の着目点を共有したいと思います。

 

  • 日時:2020年3月15日19時~21時
  • 会場:コモンルーム中津(大阪市北区豊崎3-13-5 TKビル)3階貸会議室(和室)
  • 図書:ウィリアム・H・マクニール「世界史(上)」(訳:増田義郎・佐々木昭夫)中公文庫(2008)
  • 範囲:105頁~144頁
  • 発表:とあるキリスト教教会関係者


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今回この範囲の資料作成にあたり、キリスト教教会関係者の視点からの概要説明(着目点・キリスト教との類似点と相違点)を頼まれた。以下、なるべく依頼の趣旨に沿ってまとめてみた。

 

Ⅰ:宗教の意味

 

(1) 定義

 


ここでは、宗教の働き「どうしても思いのままにならないものからの救済」と定義して話を進めることにする。


これの最たるものが「死」であり、「死」をもたらす病気・災害・戦争など不安・恐怖・苦悩を引き起こすものからの救済のために宗教があると考える(「救済」が何を指すかを論じてみても面白いかもしれない)。

 

(2) 宗教の分類

 


宗教を起源と広がりの観点から、起源「自然宗教」と「創唱宗教」に、広がり「民族宗教」と「世界宗教」に分類することができる。(「創唱宗教」は特定の人が始めた宗教であるが、さかのぼれば自然宗教に含まれるかもしれない。)

 

①民族宗教

 


民族宗教の神々は、人間的な要素が強く必ずしも道徳的ではない。さらに、民族と一体になっているので、布教する必要がない。その民族内での現世利益を重視し、呪術と結びつき、儀礼が発達していくことにより、宗教が国家に使われることもある。その際不満や批判が生じて、改革者が出現し創唱宗教に結びつく。

 

②世界宗教

 


創唱宗教は、民族の枠をとりのぞくために普遍的な教えを目指す。それが成功すれば世界宗教となる。そこでの普遍的な教えは「一神教への傾向」が見られる。ここでの一神教は、は次々に生まれてくる必要がなく、世界全体を支配するものと考えられる(cf.140頁)。もちろん、この場合も国家に取り込まれる恐れがあるので、その際は、再び批判者が現れ、新しい創唱宗教が生まれる可能性もある。

 

Ⅱ:ゾロアスター教

 


ゾロアスター教の考えがユダヤ教へ、そしてキリスト教・イスラム教に影響を及ぼしたので、ゾロアスター教の考え方をまとめておく。

 

(1) 二元論

 

「ゾロアスターの告げるところは、雄大かつ深遠であった。彼は、宇宙の至高霊アフラ・マズダの栄光を説いた。マズダは、悪の原理であるアハリマンとの宇宙的な闘争を強いられている。」


 - マクニール「世界史(上)」142頁


地上を舞台に、人間を登場人物として、マズダとアハリマンの闘争が繰り広げられていると考えれば良いだろう。

 

(2) 道徳的行為の推奨

 

「あらゆる善なる人の義務は、明らかに光の側に組し、預言者ゾロアスターの仲介によって、アフラ・マズダの命令に服することである。この命令の中には、質素な儀式を行うことと、他人に対する道徳的な行為をすることが含まれていた。」


 - マクニール「世界史(上)」142頁


道徳的行為を実際に行うかどうかは、人間に任されていたが、これによって現世における繁栄来世における不死が約束されていたのである。


人間が死んだ後、個別審判総審判があり、総審判は終末の審判者を滅ぼし、正義の世界が打ち立てられるという考えであり、これがユダヤ教やキリスト教に影響を及ぼしている。

 

Ⅲ:ユダヤ教

 

(1) ユダヤ教の特徴

 


ユダヤ教の特徴に関する140頁には、次の2つの考えが述べられている。

 

  1. 「現在の苦難は明らかに人間の過去のいたらなさを神が怒り給うているのだから、聖書に明示された神の意志にさらに忠実に従うようつとめねばならぬ」という主張(エズラ、ネヘミア)
  2. 「神は民衆の忍耐力と強さを試そうとして、試練を与えておられるのだ。その結果、それに堪えた者たちが、世界が終末にのぞみあらゆる不正が一掃される偉大な『最後の審判の日』に報いられることを意図されているのだ」と主張(イザヤ)


いずれにせよ、「神の意志にさらに忠実に従う」こと神からの「試練」はどのように解釈されるのかという点で、「教師(ラビ)の聖典説明を聞くこと」(139頁)がユダヤ教の「中心的な礼拝行為」となっていくことを理解するのは容易である(cf.141頁)。

 

(2) ヤハウェ

 


当時の人たちが、神・ヤハウェどのような存在だと考えていたかを簡単に述べておく。

 

「神は正義者であると同時に慈悲ぶかく、非行者を罰するが、ぐずぐずせずに悔い改める罪人たちを許すことができる」


 - マクニール「世界史(上)」137頁

 

Ⅳ:キリスト教から見たユダヤ教

 

(1) 聖書 

 

①聖書の内容

 


「エジプトの記録や年代記は、聖書の語るところとうまく一致しない」(136頁)と書かれている。


他にも、聖書の記述史実と異なっているところはある。しかし、キリスト教は、この点を全く気にしない。それは、聖書歴史や自然科学の真実を述べているのではなく、「救い」の観点で真実を述べていると考えているからだ。


乱暴な言い方を許してもらえるのであれば、「記録や年代記と違っていたとしても、それがどうしたんですか。まぁ、そんなことは『救い』には大きく影響しませんよね」という感じだろうか。

 

②旧約聖書・新約聖書

 


残念なことに、私はイタリアに日本語の文献を持ってきていないので、はっきりとしたことを書くことができない。少なくともキリスト教の観点では、「旧約聖書」・「新約聖書」と区別はしているが、先に述べた「救い」の点では一貫している。


両者の区別は、イエス・キリストが生まれる前が「旧約聖書」イエス・キリストが生まれてからのことが書かれているのが「新約聖書」となっている。


従って、キリスト教旧約聖書・新約聖書の両方を大切にしている。決して「旧約聖書」がユダヤ教の聖書で、キリスト教は「新約聖書」だけということではない

 

(2) 神の位置づけ

 


私もそうだったのだが、「ユダヤ教」の神「キリスト教」の神が別物だと理解している人がいるかもしれない。キリスト教徒の中でも、ユダヤ教の神(旧約聖書の神)は先に述べたように、「非行者を罰する」点に重きを置いて、キリスト教の神(新約聖書の神)「慈悲ぶかい」と理解している人がいるかもしれない。


しかし、ユダヤ教の神キリスト教の神も、一貫して神は神なのである。いずれの場合も、「神は正義者であると同時に慈悲ぶかく、非行者を罰するが、ぐずぐずせずに悔い改める罪人たちを許すことができる」(137頁)神であり、キリスト教の場合はさらに「愛」を強調していると言えるだろう(「愛」について考えてみても良いかもしれない)。

 

(3) イエス・キリストの存在

 


イエス・キリストについて書くことはたくさんある。「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネによる福音書21.25)とあるので、私もここでは「救い」の観点から簡単に述べたい。

 

①キリスト教における「救い」

 


キリスト教では、人間はアダム楽園追放神との関わりが喪失したと考えている。その切れてしまった神との関わりを、イエス・キリストによって人類がもう一度神と関わること「救い」と考えている。

 

②旧約聖書と新約聖書のつながりの観点

 


①をもう少し説明したい。アダムとイブエデンの園から追放された話である(リンゴとは聖書に記述がないのだが、リンゴのイメージが定着している)。


「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(創世記3.3)と女は蛇に答えている。その禁を二人は破ってしまうのだが、ここで「アダムとイブは木によって神との関わりを失った」と理解する。


次に、イエス・キリスト救いのわざがどのように成し遂げられたかを考えると、それは「十字架上の死」である。自分の命を犠牲にしてでも、私たちと神をもう一度つなげてくれたと、キリスト者は考える。


先ほどのアダムとイブ「木」によって神との関わりを失ったが、イエス・キリスト「木」によって再び救いへと導いた旧約聖書と新約聖書のつながりの1つであるが、キリスト教の「救い」を考える上で大切な点なので、簡単に紹介した。

 

Ⅴ:まとめ

 


今回の範囲を読んで、初期ユダヤ教がどのように形成されたか歴史の観点から学べたことは、私にとってとても勉強になった(とはいっても、少ししか記述がないので深めなければならないが)。


さらに、資料の作成をすることで、信者ではない方々「キリスト教」をどのように説明するかを考えるきっかけになったのが、何よりの収穫である。キリスト教は、掟(倫理的規範)にうるさいとか、今回は述べられなかったが復活を信じている変わった人たちの集まりだとか、世の中の人は色々なイメージをもっているだろう。


しかし、一キリスト教教会関係者として何を一番伝えたいかを考えたときに浮かんだのは、私たちにとっての「救い」とは、人間と神との関わりを再び結ぶことだということである。


そこで、「救い」とは何だとか、「神」とはどんな存在なんだとか、色々な疑問が当然生じてくるであろう。私は、私なりにこれに対して明確な答えを持っていて、それを信じている。宗教を信じるかどうかは、最終的にその人が選ぶことであるが、その宗教がどのような考えを持っているのかを、正しく理解することは信じる信じないを別として必要なことではないだろうか。


その意味で私は、諸宗教の勉強を続けていきたいと思っている。


(とあるキリスト教教会関係者)

 

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