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イタリア特派員シリーズ(4)母語話者に教わらないとわからないこと

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新しいクラスになって


1月から新学期が始まった。幸い、上のクラスに上がることができたので、心機一転頑張っていきたいと思っている。


早速一日を終えて、今までとの違いを感じた。それは、使われる単語の量が増えているということである。さらに、クラスのメンバーも休み時間には英語ではなくイタリア語を使って互いに意思疎通を行う人が増えていることである。


私は、イタリア滞在4ヶ月が過ぎた。その中で、初めて会う人に「どれだけイタリアにいるの」と聞かれて、「3-4ヶ月」と返事をすると、大体の人が驚く。「それだけで、これだけしゃべるの?」と。

 

抽象語は英語に似ている


別に、私に語学の才能があることが言いたいわけではない。


若くないので、聞いた単語はすぐに忘れる。書いても覚えられない。つまり、語彙力は豊富ではないのだ。


しかし、抽象語は英単語に似ているものが多いので、自分は積極的に話すことはできなくても、相手の言っていることの概略は理解できる。

 

「当たって砕けろ」的な感性


そして、アジア人(と括ってしまうと問題であろうが、おそらくアジア人はヨーロッパ人に比べて積極的ではないという点で)とは違って、私はぐいぐい輪の中に入っていくタイプである。わからないながらも相手の輪の中に入っていって、それなりに反応をする点が評価されているのだと思う。


この「当たって砕けろ」的な感性は、おそらく少しだけ関わった営業職(テレアポ)が大いに役立っているのかもしれない。

 

発音とアクセント


さらに、これは自分ではわからないし、自分もまだまだ引っ張られているだろうが、発音とアクセントの問題もあると思う。


今のクラスには、アジアからは韓国・中国・ベトナムからの学生が、それ以外は、フランス・ドイツの学生がいる。ドイツ語の音は私にはわからないが、韓国・中国・ベトナム・フランスを母国語とする人の話すイタリア語は、それぞれの国の言葉のイントネーションと発音にイタリア語が乗っかっている音になっている。


この点で、私は(前にも書いたが決して人見知りではない!)、日本語を聞いて話す機会がほとんどなく、イタリア人と生活をしていることもあって、まだイタリア語に近い音を話しているのかもしれない。


私の、「当たって砕けろ」的な性格と、「少しはイタリア化した音声」イタリア人は評価してくれるのだろう。

 

「書く」と「話す」


「書く」こと「話す」ことについて、最近経験したことを述べたい。


短絡的な私は「書ければ話せる」と思っていたので、10月半ばから日々感じたことイタリア語で書いて、大学の先生に見てもらっていた。幸い文法で大きな指摘をされることはなく、「言い回し」で直されることが多かったので、今思えば傲慢だったと思うが、「自分は意外とできるのかもしれない」と思っていた。


そんな中、人前お話をしなければいけなくなった。しかも1週間に4回


場所は教会。その日の読まれる聖書の箇所は決まっていて、それについて話すのである。


日本でもしてきたことなので、それ自体に抵抗は全くない。問題は、使う言葉である。


これまた傲慢であるが、日本では原稿を書くのではなく、メモで済んでいた。しかし、イタリア「外国人」である私は、原稿を作って、そのまま読むことから始めなければならない。


今まで、大学の先生に見てもらったのと同じように作文をして、先輩に見てもらった。


もちろん、たくさん赤が入ることには変わりがない。しかし、今までとはちがうのは、「これは伝わらない」とか、「これは難しい」とか「伝え方」の指導もしてくれるのである。


学校の先生が悪いとは言わない。学校の先生はおそらく、文法的に正しいかどうかを見てくれたのだろう。一方、先輩「伝わりかた」の観点も含めて添削してくれたのである。


もちろん、私(たち)は、日本語書き言葉話し言葉を(無意識のうちに)区別して使っている。


書くように話しても、演説のような場合には伝わりにくい。外国語習得の際は、これらを意識しないといけないことを学んだ。極端な場合かもしれないが、演説の際はいかに易しい表現を使って、相手の心にメッセージを届けるかが必要になる。


さらに、「書く」こと「話す」時に大切なことは、どういう単語を使うかということである。

 

例1:パンを増やす


例えば、聖書の中でイエスが「パンを増やす」話がある。聖書の中で、イエスが「パンを増やす」のは、「パンの数が増える」のであって、「1つのパンを大きくする」のではない。


「増やす」を辞書で調べると、aumentare, accrescere, incrementareが出てきた。

 

  • aumentare:1 増す、増やす 2 (価格、給料、税金などを)上げる
  • accrescere:増やす、増大させる、拡大する
  • incrementare:増やす、増進させる


全てを書いたわけではないが、このように出てくる。(辞書の文句を言うわけではありません!)でも、私はどの単語を使ってよいかわからなかったので、「aumentare」を使ってみた。

 

Gesù ha aumentato i pani.


文法的には正しい。


しかし、言われた。「これは違う」と。


「aumentare」「大きくする」という意味で、「数を増やす」のは「moltiplicare」を使うのだと。もちろん、文法的にも意味的にも「aumentare」を使うことはできる。しかし、聖書の記述を訳す場合には、「moltiplicare」を使って、

 

Gesù ha moltiplicato i pani.


としなければ、聞いている人に伝わらない。これはイタリア語だけではなく、日本語英語でも同じようなことが言えるだろう。

 

例2:事故


他にも、話は変わるが、「事故、アクシデント」という言葉も考えたい。


辞書で、「accidente」とひくと、「[英accident]1 不慮のできごと、偶発事件:災難、事故」とある。


また、「incidente」とひくと、「[英accident]1 事故、思わぬできごと」とある。


授業で、車の絵が描いてあって、「どんなincidenteが起こるか考えましょう」という練習があった。そこで、クラスで「accidenteとincidente」という音が聞こえたので、先生が説明してくれた。「accidenteじゃない、incidenteだ」と。


そこで、私が「辞書には両方載っている」と言うと、「イタリアではそう言わない」と言われてしまった(それが本当かどうかわからないのだが)。Accidente(単数形)は、複数形「accidenti」として使うのだと。


そして、辞書をひくと、

 

Accidenti(驚き、不快感を表す)なんと;ちくしょう;ちぇっ、くそっ


と書いてある。

 

例3:郷土料理


別の例として、私は旅行先で、「その土地の料理が食べたい」ので、知っている単語である「cibo」(食物、食べ物)「locale」(その土地の)を組み合わせて、「cibo locale」と注文していた。もちろん、店員さんは私が外国人であることを加味して、意味をくみ取ってくれていた。私も恥ずかしがることなく、このように言っていた。


しかし、「郷土料理」を表す表現として、「piatto tipico」(名物料理)という表現があることを教わった。


「ciboはね、スーパーに行ったら、犬や猫の餌にも使う言葉なのよ」


先生のこの説明を強烈に覚えている。


私はレストランに行って「cibo」を使っていたのだ。知ってしまった以上、恥ずかしくて使えない…。

 

まとめ


「何を伝えたいのか」


そのために、どう伝えれば伝わるのか


日本で通じる「たとえ」「共有されている社会の様子」イタリアとは異なることがある。そうすると、そのまま訳しても真意が伝わらない


こういったことは、イタリア人から教えてもらわないとわからない点である。


今のクラスで、このような表現の違いを教えてもらうのが楽しみで仕方ない。


(とあるキリスト教教会関係者)

 

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