インターネットでなされる授業と試験
コロナウイルスの問題が世界中に広がっている中、イタリアにいる私の元にはたくさんのメールが届く。年賀状が届いてるのかな?と思うほど、たくさんのそして、普段はあまり連絡をとらない人からメールを頂く。
私がイタリアにいることを覚えていてくれたり、家族みんなで心配してくれたりは嬉しいのだが、こちらは学期末の試験直前なので、対応に疲れるのも正直なところではあった。しかし、返事を送らせてしまうと「大変なんじゃないか」と思わせてしまうので、なるべく早く返事をしている。
そう、3月末は試験前。大学は3月2週目からインターネット授業になってしまった。試験もインターネットで行われている。「語学のテストをネットで行うってどうなんだろう」と思うが、他に手段がないので仕方がない。
「流暢に話す」と言われたら・・・
試験は、「読む・書く・聞く・話す」が試されるものであるが、今日はその中でも「話す」ことについて書いてみたい。
「流暢に話す」と言われたら、私たちは何をイメージするだろう。
私は、英語のイメージが強かったので、「スラスラ」と「立て板に水」のようなものをイメージしてしまった。このあたり、ロジカルノーツの鈴木先生に意見を聞いてみたいが、私の中で英語は一語一語をはっきり話すと言うより、「流れ」のイメージが強い。さらに、ゆっくり話すよりはある程度のスピードが必要だと思っていた。おそらく同じように思っているアジア人が多いだろう(今の私の体験から)。
「話せる=ある程度のスピードで話す」と思っていたので、例えば、英語でinternationalと発音するようにイタリア語でもinternazionaleと発音していた。
イタリア語では
イタリア語の発音は、「sìllaba(音節・シラブル)」を大事にする。
アクセントももちろん大切であるが、1つ1つのsìllaba(音節・シラブル)をはっきり発音しないと通じないのである。
誤解を恐れずに書くなら、英語なら「インターナショナル」となるところを、イタリア語では「インテルナツィオナーレ」となる。
イタリア語が日本人には発音しやすいというのは、「アルファベットで書かれた通りに読めばよいから」なのだが、日本人の脳は既にアルファベットを英語のように読むように構成されているので、これがイタリア語の発音をするのに邪魔になる。
もう少し言わせてもらえば、イタリア語は融通が利かないので(失礼!?)、書かれた母音はその通りに読まなければならないのだ。もし、aeのような音があったら、「アエ」と読まなければならないのである。
伝える・聞かせるため
どうして、試験前にこんなことを考えたのかと言われるのかもしれない。それは冒頭に書いたようにコロナウイルスの問題が関連している。
連日のようにテレビで首相や首長が国民に呼びかけている。その発言を聞いていると、思っている以上に「ゆっくりと一語一語を大切に」話している。おそらく、これがアメリカやイギリスの英語ならもう少し速く話すだろう。でも、人に伝える、聞かせるという観点で考えるなら、イタリア語は「ゆっくり」話す言語なのである。
結局、流暢に(速く)話すことが「かっこいい」と思っていたが、自分は流暢に話しているつもりでも相手に伝わっていなければ何の意味もない。例として挙げるのが失礼かもしれないが、上皇陛下が天皇陛下だったとき、そして今の天皇陛下も「おことば」はどちらかと言うと「ゆっくり」である。しかし、「流暢ではない」という人は誰もいないだろう。むしろ「聞きやすい」と思う人が多いだろう。
今回は英語を槍玉に挙げてあげてしまったが、コミュニケーションの手段としての言語を考えた場合、速さよりも正確さの方が大切だと改めて感じた今日この頃である。
読書会
さて、コロナウイルスの影響で外出しにくい中、私は、3月15日にSkypeを利用したロジカルノーツの読書会に参加した。
本来ならSkypeでも参加できない時間帯なのだが、今イタリアは外出ができないので、今回はSkypeで参加することができた。
本題とは関係ないのだが、今回の読書会は、Skypeで複数の場所をつないで行われた。私にとって、このように複数の場所をつないで画面越しに話をしていくのは初めてだったので、最初は少し緊張したが、いつの間にか慣れて、あっという間に時間が過ぎたように思う。
さて、今回の読書会の範囲は、「中東のコスモポリタニズム紀元前1700-500年」で幅広いテーマを扱っているが、「宗教」に焦点を絞ってレジュメを作成した。
以下、私の説明の後の会話の流れ(概要)を記してみたい。
キリスト教
二元論の話から、天使の中の悪いやつが悪魔になるので、神と悪魔が対立するのではないという話。
キリスト教では、神との関わりを断ってしまった人間が、再び神と結ばれることを「救い」と考える、という話からアダムとイブの話になった。
レジュメにも書いたが、聖書には「リンゴ」とは書かれておらず、「果実」となっている(ヘブライ語・イタリア語・日本語の各聖書)。
しかし、ステンドグラスや絵画では「赤い果実」になっていることが多いのではないかという話から、英語では「のどぼとけ」のことをAdam’s appleと表現し、イタリア語でもpomo d’Adamo(pomoはリンゴ)と表現しているという話になった(その後調べたら、フランス語でもpomme d’Adamと表現されている)。
そして、「ここまで染みついていたらリンゴだと思うよね」と指摘があった。このとき私は、ロジカルノーツのポリコレの記事を思い出した。
誰かが、ある単語についておかしいと指摘しない限り、それは変わらない。
じゃあ、「のどぼとけ」はどうだろうか。確かに、これが「リンゴ」だろうが他の果物だろうが、誰も困りはしない。だから疑問にも思わないだろうし、思っても放っておくのだろう。ただ、「リンゴ」の立場からしたら、ちょっとかわいそうな気がする。
話を戻して、参加者の指摘がなければ、この問題に誰も気づかなかったのである。その点で、複数人で読んでいくことは興味深い。
鉄・騎馬
今回の範囲で皆が注目したのは、「鉄」と「騎馬」である。
今の我々が当たり前だと思っていることは、時代と場所によって当たり前ではないのだ。今の若い世代の人たちにとってのスマホやネットも同じことが言えるだろう。
私たちは生き方を逆戻りすることはできないし、一度自分たちにとって都合が良いと判断したものを手に入れたら、今度はそれを手放すことはしないのも人類に共通のことなのだろう。
灌漑技術から始まり、統治の仕方、そして今回の鉄と騎馬(・あまり議論の中では出てこなかったがアルファベット)、さて次は何が出てくるのか楽しみである。
国家
統治範囲が広がるにつれて問題となったのだろう。参加者の一人が「国家」に注目した。
原典がどのように言葉を使い分けているかを調べる必要があると、別の参加者がコメントしていたが、この「国家」という言葉も、私は一人で読んでいるときはサーッと読み飛ばしていた。
この議論が展開されていた途中で、私は少し席を外すこととなった。そのときの議論の内容を補ってもらった上で、思うところを述べてみたい。
「国家」概念の要素として、対外的独立性を挙げるのが一般的である。
今回の範囲で、蛮族(とされていた集団)が文明化していくときに、マクニールが「共同体」ではなく「国家」という表現を意識的に選んでいるのではないか、という議論があった。
この観点から考察したいのだが、ある意味で、ユーロ圏は対外的独立性の面で「国家」概念の変容事例とも言える。
昔社会の授業で、「国家」の要素として、「主権・人民・領土」と習ったのを思い出した。ユーロ圏の各国はそれぞれ主権と領土を有している。しかし、人の動きは(今の特殊な状況は別として)自由である。ここからはイタリアで数か月生活している者として感じたことを書いてみたい。
「その国らしさ」とは・・・
前にも書いたが、イタリアにいると、日本にいるときは意識しなかったことを意識させられる。
我々が「日本人」と言うとき、どのような人が「日本人」なのだろうか。
「日本語」を話せる、両親(またはそのどちらか)が日本人である…など挙げられるだろう。少し前までは父母どちらかが外国籍の子を「ハーフ」と言っていた。この考え方自体が「島国日本」なのだということを感じた。
「イタリア人」とはどのような人を指すのだろうか。
イタリア語を話せる人を「イタリア人」と言うのではない。では、イタリアで生まれた人を指すのかというと、それだけでもなさそうである。イタリアに限らず、両親のどちらかがイタリア人で、どちらかはイタリア人ではない場合もたくさんある。そこで私は勝手に、「イタリアのパスポートを有する人」をイタリア人と定義しておくことにした。
ユーロ圏内では人の動きは基本的に自由であるから、彼らにとって国を越えて勉強するのは、私たちにとっては日本国内で移動するような感覚なのだろう。ユーロ圏内で「ゆるやかな領土」を有していると考えても良いかもしれない。
実際、ローマから飛行機で2時間飛べば別の「国家」に行ける。大阪から札幌・那覇ぐらいだろうか。
ここで再び日本国内と比べてみたい。
北海道と沖縄は、直行便で3時間余りである。これだけ飛んでも同じ国で、もちろん風習の違いはあっても、同じ「日本」である。先ほども書いたが、ユーロ圏内は1-2時間飛行機で移動するだけで別の国に行けてしまう。
もちろん国境付近はそうでもないのかもしれないが、イタリアからフランスに、ポーランドに行くだけで、言葉はおろか文化・習慣が異なることを興味深いと感じるのは私だけだろうか。
人の行き来についての敷居は低くなっているのに、言葉や物の考え方はそれぞれのアイデンティティを維持している。国家を国家とする要素の「人民」は物理的には動きやすくなっているものの、内面の部分では「その国らしさ」(もちろんこれが何を指すのかは難しいところである)が保たれているとするなら、「その国らしさ」はどのように培われていくのだろうか。
これは、ユーロ圏の外からお邪魔した私にとって、大きな課題であるように思う。
(とあるキリスト教教会関係者)