イタリアから感想文が届きました。
「とある教会関係者の言語学習体験記」シリーズと「イタリア特派員」シリーズの執筆者からです。
「最近のロジカルノーツの記事について、どうしても言いたいことがある」と連絡が入り、せっかくなので感想文を書いてもらうことにしました。
こっぴどく怒られるのではないか・・・と内心ビクビクしながら。また、イタリア語やラテン語で送られてきたらどうしようかとも・・・。
(心から望んでいた通り)日本語で送られてきましたので、そのまま紹介させていただきます。
私は一言語学習者としての記事を書いているだけで、ロジカルノーツの回し者ではないが(笑)、最近書かれた2つの記事について多言語学習者としての所感を述べてみたい。
「大学入試英語成績提供システムの始まりと終わりとその先」(2019/11/12)について
11月に入って、「4技能」のことで受験生は戸惑い、予備校業界はホッとしたかもしれない。私は制度や内容のことを書きたいのではない。
この記事で提案された「4技能評価時代にふさわしい英語テスト」を読んで、これを自分の状況と重ねたのである。記事中では「『読む・聞く・書く』のスコアが『話す』のスコアに影響していると感じます」と述べられている。
私はイタリアに来る前、日本で10ヶ月の間に54時間マンツーマンでイタリア語の講座を受講した。
そこではまず、30分近くは先生と以前の学習を振り返る観点で会話を行い、その後新しいこと(主に文法事項)を学んできた。最後の方は、作文も行い、少しは4技能を満遍なく行うことができた。
しかし実際イタリアに来ると、赤ちゃん並の状態であることには変わりがない。
その中で2ヶ月を振り返り、自分がどのような勉強をしてきたかというと、私は「読む・聞く」に重きを置き、とにかく語彙力を増やすことを心がけてきた。単語を知らないと話にならないからである。
聞くにしても、単語を理解できないと音としてしか入ってこず、意味の理解はできないのである。
ただ、書いてあるものを読んで積み上げていく語彙と、実際に話されている表現は異なることが多い。
だから、「読んで聞き」ながら、語彙力を増やしていく。ただそれだけ。
外で若者が騒いでいても、じっと我慢。クラスでみんなが英語を使って話をしていても、なるべく仲間に加わらないようにしていた(人間嫌いなのではありません)。
そして、1ヶ月たった頃、話すことを目的として、まずは書けるようにしようと、日常の出来事を「伊作文」して先生に見てもらうことにした。それを繰り返すことで書くことへの抵抗はなくなってきたし、言い回しを少しずつ覚えていった。
丸2ヶ月を経過して、少しずつ単語量が増えていくことで、人の話を聞きながら「あっ、この単語知ってる」というのが増えてきた。
当たり前のことだが、目で見るだけでは単語は入ってこず、耳で聴いて、手で書いて、口で話して身についていく。そして、口が慣れてくると自信につながる。
書くことの必要性(昭和的かもしれないが)については、新井紀子氏の近著「AIに負けない子どもを育てる」(東洋経済新報社、2019)の特に7章を参照してほしい。私の読み取りが大きく間違っていなければ、その内容は私の実感に近い。
こんな状態ではあるが、私は週に数回、時間にしたら1分前後だがイタリア人の前で朗読する機会に恵まれている。
そこで、前もってその箇所をイタリア人に読んでもらって録音し、聴いては口に出し聴いては口に出し・・・。このおかげで、口は慣れてきたし自信にもつながっていった。
そしてイタリア人はとにかく褒めてくれる。日本の先生なら75点ぐらいのところ(高いのか低いのかはさておき)を、「今日は良かった」とニコニコ褒めてくれる。自分ではまだまだと思いながらも、褒められて悪い気はしない。
この自分の取り組み-読む・聞くを重視して、書き始める-は、話すことにもつながっていると思っていたし、それを信じて実践しているし、実際に効果が表れてきている(個人の感想です)。
「大学入試英語成績提供システムの始まりと終わりとその先」(2019/11/12)の記事を読み、私の取り組みが裏付けられたように思う。嬉しかった。
私はCEFRの中にいる
話は変わるが、「週刊新潮」2019年11月14日号に掲載された阿部公彦東京大学文学部教授の記事(延期ではなく理念の見直しを!「民間試験導入」は日本の若者を「英語帝国主義」の最底辺に位置付ける)を興味深く読んだ。なぜなら、私はまさにCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)の中にいるからである。
阿部教授は、CEFRの特徴を踏まえ、これを入試に用いることに否定的な立場で論じておられる。「~ができる」というチェック項目を判別するCEFRの指標は、阿部教授の言葉を借りると「労働者のスペック管理」が容易になるという利点があるとのこと。そして、「~として働きたい」といった明確な目標がある場合ならよいが、そうでない中高生を「~ができる」という指標で評価・管理することには問題があると指摘する。
英語とは違うが、私は今、CEFRを基準にしたイタリア語学習をしている。私の場合、キリスト教教会関係者としての立場でイタリア語を学んでおり、学ぶ目的ははっきりしている。私のように「何を」「どのように」という明確な目標を持っている者にとってCEFRという指標はありがたい。これは確かである。
また、阿部教授の記事の中で紹介されていた、内田樹神戸女学院大学名誉教授のブログでの指摘には考えさせられた。
「植民地人を便利に使役するためには宗主国の言語が理解できなくては困る。けれども、宗主国民を知的に凌駕する人間が出てきてはもっと困る。『文法を教えない。古典を読ませない』というのが、その要請が導く実践的結論である。教えるのは、『会話』だけ、トピックは『現代の世俗のできごと』だけ。それが『植民地からの収奪を最大化するための言語教育戦略』の基本である。」
内田樹の研究室(http://blog.tatsuru.com/)「リンガ・フランカのすすめ」2010年5月12日
この「文法を教えない。古典を読ませない」という箇所は、私の少しの体験からも共感できた。
今いるクラスには、イタリアで育ったからであろう、話せることは話せる(意思疎通はできる)が、文法的に間違っていたり不明瞭な点があったりする者がいる。
では、彼らは何のために「改めて」イタリア語を勉強するのか。
それは次の段階(主に大学進学)のためである。そのためには文法を学ぶ必要があり、イタリア語の語学学校に通うのである。イタリアで生活してイタリア語を話すことができるのに。
イタリア語を話せるのにイタリアの語学学校に通う人たちがいるということは、私にとっては想定外のことであった。そのような現実を目の当たりにしているからこそ、内田名誉教授の指摘を読み、深く考えさせられたのである。
しかし、「文法を教えない。古典を読ませない」というのは、他言語学習に限らないと思う。日本語にもあてはまるだろう。
新井紀子「AIに負けない子どもを育てる」東洋経済新報社(2019)ではないが、日本語話者であっても、読解力が相応でない人が増えてきている。
日本語が使われている国で生活するには日本語の理解が、英語が使われている国では英語が、イタリア語が使われている国ではイタリア語が、「書けて、読めて、聞き取れて、話せる」ことが必要なのだ。話せるだけでは十分ではない。
「受験生が新聞を読むメリット」(2019/10/20)
次に問題になるのは、言語を「書けて、読めて、聞き取れて、話せる」能力が身についたとしても、「話す内容」がなければ何の意味もないということだろう。
この記事は「受験生が新聞を読むメリット」について書かれたものである。
その中で挙げられたメリット「読み書きの訓練、多様なテーマへのアクセス」や、新聞を読むときの留意点「サンプルを手に入れるという意識」は今の私にとっても欠かせないものである。
「日本語を忘れる」ほどイタリア語は身に付いてない(一度言ってみたい台詞ではある)が、圧倒的に日本語に触れる機会が減っているので、電子版を利用して朝刊・夕刊を読むようにしている。しかも、日本にいるときよりもじっくり。
それは、「読む」訓練のためでもあるが、今日本や世界でどのようなことが起こっているのかというネタを仕入れるためである。
もちろん、今読んでいる新聞の情報が絶対的なものではない。ただ、「サンプルを手に」することは必要である。その「サンプルを手に」するためにも、論理的に正しく読めるということは必要不可欠なのである。
ある大学生と話をしていて、「サマータイム」の話になったことがある。
彼は「数年後にサマータイムが廃止になります」と私に言って、欧州議会のサマータイム廃止法案(2019年3月26日可決)の記事をLINEで送ってくれた。私は記事を読んだが、「欧州議会として決まっただけで加盟国についてはまだだよ」と伝えた。
そう、すでに彼はAIに負ける予備軍になってしまっている。(話はそれるが、問題なのは、自分では廃止されると思っていたことである。私たちは間違ったときに、人からの指摘がないと気づかないことが多い。)
ところで、天皇即位の国民祭典で芦田愛菜さんの挨拶が話題になった。
誤解を恐れずに言うが、「15歳とは思えない」という表現をよく目にしたが、それはそう思った人が「自分が15歳だった時」には、今回の挨拶のような言葉が使えなかったということを意味するのではないか。もちろん、私も驚く側の人間である。
しかし、芦田愛菜さんの読書量は有名で、それを考慮すると今回の挨拶も驚くことではない。
結局、普段からの「ネタ集め」をどれだけ行っているか、そしてそれを論理的に考えられているかということが、「話す・書く」ことにつながっているのだろう。
(とあるキリスト教教会関係者)