先日実施した読書会【マクニール の「世界史」を読む】の第1回目では次のような発表を行いました。
これについて、とあるキリスト教教会関係者から感想文が届きましたので、紹介させていただきます。
私はマクニールの「世界史」を「序文」にある意図をもって読みすすめるようにした。
「いついかなる時代にあっても、世界の諸文化間の均衡は、人間が他にぬきんでて魅力的で強力な文明を作りあげるのに成功したとき、その文明の中心から発する力によって攪乱される傾向がある、ということだ。そうした文明に隣接した人々、またさらにそれに隣接しあう人々は、じぶんたちの伝統的な生活様式を変えたいという気持ちを抱き、またいやが応でも変えさせられる。」
- マクニール「世界史(上)」36頁
私はキリスト教の教会関係者としてこの部分を読んだとき、「ヨーロッパの教会離れ」とグローバル化した現代社会を結びつけずにはいられなかった。しかし、今から書くことは裏付けをとったわけではなく、人と話したり私の狭い視野だけで見たりしたことなので、当然批判があることは承知である。
先に引用した箇所を読んだとき、(1)「魅力的で強力な文明」を「ネットや科学技術の発達によるグローバル化と世俗化した社会(=最近の日本社会)」と、また、(2)「…いやが応でも変えさせられる」を「ヨーロッパの教会離れ」と、すぐにあてはめてしまった。
少し説明させてもらう。
日本社会はキリスト教が根付いているわけではない。フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられたのも400年ちょっと前のことであるが、その後の鎖国があり、明治時代に一応再開したと理解する。
明治以降も決して順調とは言えない。第二次世界大戦で宣教師が幽閉されることがあった。大戦後、教会は少しの盛り上がりを見せたが、そのまま右肩上がりとは言えない。
高度経済成長を遂げた日本は、宗教が全面に出なくても、政治経済が機能していることを証明してしまったのだ。もちろん、その中でも人々の不安や孤独を埋めるために新興宗教が流行った。しかし、オウム真理教の事件を機に、人々は宗教に対するアレルギーと嫌悪感を抱いてしまった。
しかし、ここ数年の日本社会は「スピリチュアルブーム」で、宗教的な要素を求める人が増えている。仏教界はこの流れに対応し、写経や禅をプログラムに組み込んだ宿泊ツアーを実施している。
やはり人々はどこかで、今の右肩上がりの経済成長を求める社会、結果重視の日本社会に疲れ、精神的な癒やしを宗教に求めているのだろう。
ヨーロッパ社会に目を向けてみる。
「物質的経済的に豊かな社会を追い求める」ことを、先の(1)「魅力的で強力な文明」と置き換え、今までキリスト教が主流だったヨーロッパ社会は自分たちの軸を宗教よりも「魅力的で強力な文明」にシフトし始めているように見えるのだ。
では、「物質的経済的に豊かな社会を追い求め」続けた日本社会はどうなっているだろうか。
私が小さい頃は「24時間働けますか」という言葉に代表されるように、男性は仕事・女性は家庭というイメージが強かった。しかし今は、「働き改革」に代表されるように、サービス業が元日を休んだり、24時間営業を見直したりと、経済的発展を追い求めることに対して、「ちょっと待って」という雰囲気になっているように感じる。
もう少し言わせてもらうなら、「人として、それで良いの? もっと違う何かを求めるのも必要なんじゃないの?」という空気だろうか。
その意味で、「癒やし」を求める人がどこに向かうかと言ったとき、宗教それ自体ではないにしても、宗教的な何かに目を向けているのではないだろうか。
これを簡単に言うなら、日本は「脱宗教の最先進国」(誤解を恐れずにざっくり言うと、宗教がなくても社会は機能した)であったが、その後の様子を見ると、人々は宗教的な要素を求めているとも言える。
ヨーロッパ社会に当てはめてみよう。今までキリスト教が社会の規範を作ってきた。しかし、教会内部の色々な問題に嫌気が差すのとグローバル化が相まって、ヨーロッパ諸国の中には、「脱キリスト教」の流れが強くなっている。しかし数十年後、私は日本が辿ったように、結果的に人々は宗教的な何かに目を向けることになるのではないかと思う。
こういった背景をもとに、自分の立場と、今のヨーロッパと日本の教会の現状の一部を知っている者として、マクニールの「世界史」を読み進めていくことにした。
私は、シュメルの宗教についての次の記述を考察したい。
「神々の性質および、神々間または神々と人間との関係に関する基本的な過程を容認するならば、この神学体系はそれ自体すべてのことに説明を与える。」
- マクニール「世界史(上)」62頁
マクニールの立場と、当時の人々の考えがどこまで同じだったかはわからない。この考え方自体についてあれこれ言うのは横に置いて、しかし、結論として、当時の人々が積極的にこのように考えたのか、人知を超えた仕方のないものとして(消極的に)このように考えたのかでは、自然への向き合い方が変わってくるように思った。
2020年の今でも、人間は自然についてわかっているようでわかっていない。2011年の東日本大震災やその他自然災害を「想定外」と言う表現が、人間の姿勢を物語っているように思う。「想定外」の自然災害が起きたときに、私たちは人間の無力さ・力の及ばなかったことを考えるのか、それともこれを人知を超えたものからのメッセージだと考えるのか。
この考え方は、今も昔も変わらないような気がした。
(とあるキリスト教教会関係者)