クリスマスイブですね。
ロジカルノーツでは、とあるキリスト教教会関係者の方に「とある教会関係者の言語学習体験記」と「イタリア特派員シリーズ」を寄稿していただいております。現在、この方は教会関係者としてイタリアで学んでおられます。
せっかくなので、クリスマスの話を聞いてみました。
文化と言語
堅苦しい小見出しになってしまいましたが、その国で何かが文化というか、生き方というか習慣になっていなければ、「単語」(概念)は生まれないと思います。
何が言いたいのかと思われそうなので、早速具体例に。
12月25日のお祝いの言葉
12月25日、日本では何と言ってお祝いしますか。
「メリークリスマス」という人が多いでしょう。
もちろん、イタリアでは言いません。イタリアでは「Buon Natale」です。ヨーロッパでは、それぞれの国で表現があるわけです。
敢えて日本語で言うならば、「主の御降誕おめでとうございます」でしょうか。でも、こんな挨拶する人はどこにもいません(笑)。
つまり、クリスマスを祝うということが、日本の文化にはなかったわけです。当然これはキリスト教の祝いですから、日本語訳はできないわけです。
誤解その1
ちょっと余談ですが、私にとってクリスマスはキリスト教の祝いを日本が「輸入」したものであることは疑う余地のないものでしたが、普通の人の中には知らない人もいました。
例えば、こう言われたことがあります。「えっ、教会でもクリスマスを祝うの?」と。
えっ、いや、教会がクリスマスを祝うのよ、商店街が先じゃないのと突っ込みました。
誤解その2
また、私の大学生時代の会話。
友人:「○○(私の名前)は、クリスマスどうするの?」
私:「えっ、クリスマスはミサやで」
友人:「えっ、新しい彼女か、うらやましいな」
私の頭は一瞬混乱。あっ、この友人は「ミサ=女性の名前」と思っているなと理解したわけです。
さすがに、こんな突っ込みは他にありませんでしたが、「ミサ」を知らないのかとびっくりしました。
1月1日
ところで、1月1日は、日本では何と言ってお祝いしますか。
「ハッピーニューイヤー」と面と向かって言うよりも、「明けましておめでとうございます」の方が多いような気がします(最近の若い人はそうではないかもしれませんが)。
おそらくというか、間違いなく日本の文化に1月1日を祝うことは染みついているのでしょう。だから、「盆と正月」とか新年の休みがしっかりあるわけです。
ちなみにイタリアはクリスマス後に休暇はあるにせよ、新年は特に休みがありません。ですから、私も12月から1月になるのは特別な気になれないわけです。学校は1月3日から始まりますし。
誕生日
では、誕生日は、日本では何と言ってお祝いしますか。
「ハッピバースディ、トゥユー」と歌うことが多いでしょう。誰もが知っているあのメロディです。
イタリアでも誕生日をお祝いしますが、そのときはあのメロディですが、「Tanti auguri a te」 と歌います。
でも、日本では、同じメロディに合わせて「誕生日おめでとう」とは言いません。
日本は言葉や食文化、その他様々なものを諸外国から取り入れてきました。それが日本の良いところでもあるわけです。日本にいたら「ハッピバースディ、トゥユー」と歌うことに何の疑問も抱かないでしょう。
でも、諸外国に留学して(イタリアでなくても)、そこで「日本では何て言ってお祝いするの」と言われたときに、気づくわけです。
「そういえば、ない」と。
「階段」と「門」
他にイタリア語を学ぶ上で興味深いと思ったのが、「階段」と「門」です。
日本では、家の中にある階段は「階段」と言い、駅やホテルの中にある幅が広くて長いものを「大階段」と言うぐらいでしょうか。「門」と言ったら、大邸宅の入り口をイメージするか、「城門」をイメージするぐらいでしょう。
イタリア語では、「階段」を表す語に「scala」と「scalinata」があります(他にもありますがここではこの2つを紹介するにとどめます)。「門・ドア」を表す語に「porta」と 「portone」があります(他にもありますがここではこの2つを紹介するにとどめます)。
これは単に大きさの違いを言うだけではないようです(もちろん、言葉は生きているので、もしかしたら人によって解釈の違いはあるかもしれません。私が話を聞いたイタリア人たちの考えを紹介したいと思います)。
単純に言ってしまえば、「scala」と「porta」が対応し、「scalinata」と「portone」が対応しています。日本語の表現で考えれば「内と外」となりましょうか。
フランスに行ったときもそうでしたが、町の構造を考えなければなりません。
ヨーロッパの町(「ヨーロッパ」と括ってしまいたいのですが、私はイタリアとフランスのそれぞれ一部しか知りませんので、ここでは憶測の意を込めて「ヨーロッパの町」と表現しています)は、中心に大きな教会があります。その教会の周辺に家や店が並び、ある程度の範囲で町をつくります。その町を出たら、しばらく車で走って、また次の町に入ります。
数年前にフランスの高位聖職者と話をしたときに、「あなたの町にはいくつ教会があるのか」と聞かれ、「日本にはそのような考え方はない」と答えたところ、変な顔をされたのを思い出します。
もちろん、日本にも「城」があって「城下町」という概念は存在します。しかし、これは日本全国に当てはまるものではありません。この「城」と「城下町」という考えを先ほどの「階段・門」の考えに当てはめるとわかりやすいかもしれません。
「内と外」を区別するための門が「portone」で、そのための道が「scalinata」だと説明されました。これは文化と言うより歴史の問題が絡んでくるのでしょう。
色の表現
これだと、日本語が「負けて」しまうように思えるので、日本語の豊かさを探してみました。
そこで私は、「色」について聞いてみたのです。イタリア語には、色に関するどのような表現があるかと。
このときの返答は、「例えば、『明るい赤と暗い赤』のように、明るいか暗いか、陰影で区別をする」というものでした。
これを聞いたとき、私は「勝った」と思いました。
私は詳しく覚えていませんが、日本語には「○○色」と(私の)読めない漢字を使って、色を区別し、色鉛筆も専門的なものになると100色近くのがあったのを思い出します。
しかし、これが良くなかった!イタリア人の「負けず嫌い」に火をつけてしまいました。
「こんなのがある」ということで、「carminio」(カーマイン・洋紅色)、「indaco」(インディゴ・青藍)、「ocra」(黄土色)、「marrone」(茶色・栗色)と、色を表す語をたくさん紹介してくれました。
当然、イタリア語にも色を表す語はたくさんあったのです。しかし、専門の人ではない限り、その語を日常で使うことはありません。「明るい・暗い」で区別するのが合理的で実践的なのです。
まとめ
私は、どこの国の言葉が良くて、どこの国の言葉が悪いと言いたいのではありません。
日本語にはあってイタリア語にはない表現。
イタリア語にはあって日本語にはない表現。
こういうことに気づくことが、他言語学習の面白さではないかと思います。
(とあるキリスト教教会関係者)