やるからには楽しくないと
書くことが増えてきた
イタリアの語学学校の課題で「書く」ことが多くなってきた。
書く練習は学習の過程で必要なことである。「どのように言葉を並べるか」や「動詞や名詞、冠詞をどうするか」という文法的なこと、そして「書く内容」など、色々なことが要求される。
そして、きっと「書く」ことを繰り返していくことによって即座に「話せる」ようになるだろうし、人との会話の中で表現を学び、それが書くことにも活かされていく。きっと、このことを否定する人はいないだろう。
しかし、私にとってはその「書く内容」が大きな問題となる。まず、課題で出されるテーマは「面白くない」ものが多い。やらなければいけないことは分かっているのだが、どうもやる気にならない。
コミュニケーションには「中身」が大切
さらに、最近のロジカルノーツの記事に高校生と社会人が一緒に勉強することについて書かれてあったが、私も似たような状況にいる。
どちらかと言えば私はクラスの中で(見た目はそうでないようだが)「おっさん」の世代で、クラスメートたちは10代後半から20代前半がほとんどである。確かに若さを吸収できる点では良いのだが、国や文化も違うので話が合わないことが多いのだ。そうすると、彼らとじっくり話すこともない(もちろん一部のクラスメートとはいろんな話をするのだが)。
要は、書いたり話したり、また読んだり聞いたりする上で、「中身」は大切だと思うことを伝えたいのである。
お気に入りの歌をイタリア語に訳してみた
「翻訳家は裏切り者(Traduttore, traditore)」という言葉がある。今回は「私も裏切り者である」ということを書いてみたい。
2019年6月18日の記事でも書いたが、「日本語の歌を他の言語にするとどうなるだろう」というのは、私の心にずっと残っている。今はそれが「英語」ではなく「イタリア語」に変わったのだが。
イタリアに来てから日本語の歌のイタリア語訳に挑戦したのだが、今回の記事ではそのときのことを紹介したい。
平井堅さんの「LIFE is...」
まず、どの曲に挑戦するかということになるのだが、私は、やはり平井堅さんの「LIFE is...」を思い出してしまう。かつて、英語を専門に勉強されていた院生の方と深夜二人でドリンクバーに頼りながら「あーでもない、こーでもない」と議論し、「ピンとくる」英訳を話し合った楽しい時間をもたらしてくれた曲だから。
私は日本で生まれ育ったので、日本語の表現に慣れているし、日本語の響きが好きである。「LIFE is...」の日本語歌詞の響きを大切にしたイタリア語訳を考えてみたい。
平井堅さんの「LIFE is...」は次の言葉で始まる。
自分を強く見せたり
自分を巧く見せたり
どうして僕らはこんなに
息苦しい生き方選ぶの?
目深にかぶった帽子を今日は外してみようよ
少し乱れたその髪も
可愛くて僕は好きだよ
平井堅「LIFE is...」
すでに日本語を読むときにも「私の解釈」が入ってしまう。
ここから先は私の解釈なので、「違う!」と責めないでほしい。
「目深にかぶった帽子」というのは、無理して、自分を偽って強く・巧く見せる「息苦しい生き方」を表していて、それを外すことで、本当の自分が表れる。もしかしたらそれは髪が乱れるように、強く・巧い自分ではないかもしれない。それでも、それを受け入れてくれる人がいる。
と、言葉に書くとこんな感じになるだろうか。
「息苦しい生き方」=「窒息した生き方」?
問題は「息苦しい生き方」をどう訳すかということになる。
私は「il modo di vevere essendo soffocato(窒息した生き方)」とイタリア語で表現してみた。すると、先生は「意味が分からない」と。
私は「窒息した」という意味のイタリア語である「soffocato」を用いたのだが、先生は「schiacciato(つぶれた)」や「opprèsso(抑圧された)」という表現を使われた。これは、単語の置き換えで済むので、まだ良い。
(そして、先生はここにその生き方が本来の生き方とは異なることを言いたかったのだろう。次のように書かれた。un diverso modo di vivere se siamo schiacciato / oppresso)
「選ぶ」or「選ばなければならない」?
次に、「息苦しい生き方」に続く、「選ぶの」の部分である。
これは「選ぶ(scegliamo)」のか「選ば『なければならない』(dovremmo scegliere)」のか。助動詞を入れるか入れないかは、解釈の問題になる。なお、ここで直説法(dobbiamo)ではなく条件法(dovremmo)を使ったのは私の解釈である。
「目深にかぶった帽子」
さらに困ったのが、「目深にかぶった帽子を/今日は外してみようよ」の部分である。
まずは直訳してみようと思い、「togli un cappello che metterti nel fitto (ぴったりかぶった帽子を外そう)」と書いた。すると、先生に「文としてはわかるが、何が言いたいのかわからない」と言われた。
そこで、もう1つ「私の解釈」を加えた文を書いてみた。それは「Adesso non dire una bugia a te stesso(今日は、自分自身に嘘をつくな)」という表現である。先生は「これならわかる」と。
でも、意味は通じるかもしれないが、日本語の響きとしては味気ないものになってしまう。
この時点でいやな予感がした。きっと「少し乱れたその髪も/可愛くて僕は好きだよ」の部分も直訳(Mi piace anche la forma spettinata perché per me sembri cara)では通じないだろうなと。案の定ダメだった。
そこでまた、「私の解釈」を加えた文「Mi piace anche te stesso vivendo dolcemente(私は、素直に生きているあなたも好きです)」と書くと、「これならわかる」と。
しかし、この部分については収穫があった。イタリア語の表現で「acqua e sapone」というのがあって、これは「化粧を落とした顔、素顔」という意味である。先生はこの表現を使われた(Mi piace anche il tuo aspetto “acqua e sapone”)。
KGさんの「めぐり逢えた」
次に、KGさんの「めぐり逢えた」を題材にして考えてみたい。
仕事に追われ 過ぎ行く日々
生きてる意味さえ 見失っていた
もし僕が今 消えてしまったとしても誰も困りはしないと 思ったけど
君が僕を ただ優しく明るく照らしてくれたから
今はもう 下を向かずに
笑えるよ 心から
誰かのため 生きる事の
喜びを初めて知ったよ
I will be alright もう大丈夫
my love 巡り逢えた
KG「めぐり逢えた」
ここで取り上げたいのは、「もし僕が今/消えてしまったとしても/誰も困りはしないと/思ったけど」の部分である。こちらは直訳(Se scomparivo, ho pensato che avrei disturbato nessuno)しても大丈夫であった。
しかし、ちょっと「私の解釈」を加えてみた。直前の「生きてる意味さえ/見失っていた」という部分を参考にして、「Se morivo, ho pensato che non ci sarebbero state persone che avrebbero pianto(もしわたしが死んでも、涙を流してくれる人はいない)」と書いてみたのだ。そんな絶望の中にあっても、「君が僕を/ただ優しく/明るく照らしてくれた」ことで、生きる希望を得ることができたと考えてみた。
KGさんがどのような意図をもって書かれたかわからない。でも、わからないからこそ想像し、解釈を入れ、表現が豊かになるのではないだろうか。
時間表現
そして、この歌で難しいのは、「時間表現」であった。
- ①:「見失っていた」
- ②:「消えてしまった」
- ③:「(困りはしないと)思った」
- ④:「明るく照らしてくれた」
- ⑤:「(喜びを初めて)知った」
- ⑥:「巡り逢えた」
ここに挙げた表現はすべて「~た」で終わっている。唯一、次の表現だけが「た」で終わっていない。
- ⑦:「笑えるよ」
英語でも同じだと思うが、従属節と主節の関係をどうするかを、イタリア語でも考える必要がある。
イタリア語には過去を表す表現がたくさんあるので、私は①②③を1つのまとまりとして解釈し、次に⑥を「君と巡り逢えた」と設定し、④⑤⑦を1つのまとまりとした。
そして、私は「生きてる意味さえ/見失っていた」こととの対比を出したかったので、④⑦を従属節の位置づけにして、「生きることができる」という動詞を勝手に持ち出したのだ。そして、最終的に「誰かのために生きることの喜びを知った」と書いてみた。
推敲メモ
そのときのメモは次の通りである。
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<①②③のまとまり>
- 仕事に追われ過ぎ行く日々:Ero occupato con il lavoro, i giorni passavano.
- 生きてる意味さえ見失っていた:Perdevo anche il volore della vita.
- もし僕が今消えてしまったとしても:Se morivo,
- 誰も困りはしないと思ったけど:ho pensato che non ci sarebbero state persone che avrebbero pianto.
<④⑤⑦のまとまり>
- 君が僕をただ優しく/明るく照らしてくれたから:Illuminandomi Tu amabilmente e serenamente,
- 今はもう下を向かずに/笑えるよ心から:Adesso posso vivere sorridendo dal profondo del cuore e guardando su.(注:「心の底から笑って、上を向いて」を「生きる(vivere)」に修飾するように考えた)
- 誰かのため生きる事の/喜びを初めて知ったよ:Fino alla fine, noto la giòia di vivere per la gente.
<⑥>
- my love 巡り逢えた:Ho appena incontrato l’amore.
ーーー
一応、先生に見せたら「意味は通じる」と言ってくださったのだが、これは既に「私の解釈」が入っている。KGさんの意図とは異なるかもしれない。
翻訳家は裏切り者(Traduttore, traditore)
昔、塾の講師をしていたときに、笑い話だと思うが、「国語の評論文は筆者が解いても満点を取れない」と聞いたのを思い出した。
平井堅さんやKGさんの歌詞が他言語に翻訳されると当然違う表現になるだろう。しかし、他言語に翻訳する時点で正解は1つではないように思う。
「翻訳者は裏切り者」という表現はズバリ真実を述べているだろう。でも、「裏切り者」という表現をネガティブに捉えてしまうのはもったいないように思うのは私だけであろうか。
これらのイタリア語は現地に来て3ヶ月しか経っていない私が、カタコトのイタリア語で表現したものである。
きっと、数ヶ月後に見たら、恥ずかしくなるかもしれないし、読者の中にはもっと洗練された表現をご存じの方もいらっしゃるだろう。私は今回の試みを当然完成形とは思っていないので、ぜひ磨いていきたいと思っている。
そして、イタリア語に翻訳してみることで、改めて日本語の響きが私にはなじみのあるものであり、きれいだということを感じることができた。
(とあるキリスト教教会関係者)