私は、キリスト教教会関係者として、イタリアに留学している。コロナウイルスのことで今は中国よりも目立ってしまった「イタリア」にいる。
3月15日は、Skypeを利用したロジカルノーツの読書会に参加することができた。このような形式の読書会はコロナウイルスで外出しにくい現在の状況において楽しいものであった。
このことについては後日まとめることにして、「イタリア」にいる者として、少し書いてみたい。
不便になった
誤解を恐れずに言うなら、現時点での私の感想は「今回の騒動で『不便』になったなぁ」というぐらいである。理由を述べてみたい。
日本の皆さんはニュース・新聞・ネットの報道で、「イタリアが大変なことになっている」という印象を持たれているようである(私のところにもいつも以上にメールが届く。ほとんどが「大丈夫ですか」と心配してくださる内容である)。これは誰が悪いとか言うことではないのだが、日本の報道で「イタリア」と一括りにしているから不安を増長させている気がする。
3月14日付la Repubblicaという新聞記事を載せたが、北部ロンバルディア州は7732人と「大変なことになっている」が、首都ローマがあるラツィオ州は感染者数が242人である。一番少ない州は10人である。
しかし、コンテ首相の決断で、結果的に2週間にわたりレストラン・バーを含むお店が休業となり、学校も4月3日まで休みになった。もちろん人の移動を考えれば、結果的に良かったのであろうし、州によって対応を変えることも難しいかもしれない。
しかし、私はどちらかというと感染者の少ない地方に住んでいるので、どちらかというと状況は落ち着いているし、でも店は閉まっているので、「今回の騒動で『不便』になったなぁ」という思いを抱いている。
思い出すのは、9年前の東日本大震災のことである。私は3月11日当時関西にいたので、計画停電という言葉は耳にしたものの、「西の人間」として実際に体験することはなかったし、一時的にお店から特定の品物がなくなることはあっても、変わらない生活を送っていた。しかし、海外にいる友人からは、日本にいるということで、「日本が危ない」と思われて心配のメールをもらった。
逆に今私は日本にいないので、少し前に北海道で週末の外出自粛要請がなされたことは知っているが、日本の詳しい様子はわからない。
「外に出られないなら、出られるところで騒ごう」
同じく3月14日付la Repubblicaに載っていたし、twitterやFacebookで見られた方もいるだろうが、3月13日の18:00に「バルコニー」が大変なことになったのである。
基本的に、外に出て人としゃべるのが好きなのがイタリア人である。そのイタリア人が、外出禁止を言い渡され、人との距離を1mとらなければならないというのは「犠牲」以外の何物でもないだろう。しかし、ホッとしたのは、イタリア人のメンタリティーは変わっていなかったのである。
「外に出られないなら、出られるところで騒ごう」と言っても良いだろうか。みんながバルコニーで歌い、楽器を鳴らし、楽しんだり、団結したり、根っからの明るさを感じることができた。
一方、日本で同じようなことが起こるかと言われたら、まずないであろう。「コップに半分の水があるなら、半分しかないと考えるのか、半分もあると考えるか」で、その後の行動や考え方は変わってくるのではないだろうか。私は「イタリア人のように」半分もあると考えている。
イタリアでのこの1週間
さて、先週の日曜日からの1週間を振り返ってみよう。
8日(日曜日)、ミサは公開でできたし、サイクリングもできた。
しかし9日(月曜日)から公開のミサはできなくなり、火曜日の発表では学校の休校が4月3日までとなった。
10日(火曜日)の時点ではレストランやバーは18:00までの営業になったかと思えば、12日(木曜日)からはスーパーや銀行・郵便局を除いて全ての店を閉めなければならなくなった。
仕事や病院、特別な用事がない限り外出することもできなくなった。
色々なことが制限されていく中で、コップの話ではないが、「あれができない、これができない」と腹を立てていくのか、「あれができないなら、これをしよう」と考えるのか、私は後者の生き方を楽しんでいる。
イタリアは寛容
国民性の違いの2つ目は、よく言えばイタリアは寛容なことである。
一応、「仕事や病院、特別な用事がない限り外出することもできなくなった」し、確かに外を歩いている人はほとんどいなくなった。
しかし、ちょっと足を伸ばせば、普通に公園で散歩をしていたり、ジョギングしたり、果てはバスケットボールで遊んでいたりする人もいる。
「一応ルールはあるんだけど、まぁまぁ」という感じであろうか。
私も「特別な用事」はないのだがちょっと散歩をしている。このことを語学学校の日本人・韓国人に言うと、「特別な用事がないと外に出てはいけないんだよ」と言ってくる。確かに日本なら、こういうルールができたら「厳格に」取り締まられるだろう。しかし、ここはイタリアであることを忘れてはいけない。
ただ、冒頭の写真を見ていただいたらわかるように、こんなに空が青い日曜日の昼間なのに車も人も見えないのである。イタリア人が一応ルールに従っているのにも驚いている。
きっと、この問題が収束したとき、いつものように、いやいつも以上にワイワイ騒ぐ日常が戻ってくるのだろう。今はただ、その時を待つだけである。
(とあるキリスト教教会関係者)