ロジカルノーツ - logical notes

自分の言葉でものを伝えよう

イタリア留学中のキリスト教教会関係者が考える「読むこと」と「話すこと」

f:id:logicalnotes:20200418150050j:image

イタリアに来て7ヶ月が経った。新型コロナウイルスの影響で、日本より先に「家で過ごそう」が始まったが、私のイタリア語勉強は続いている。


前にも書いたが、今はインターネットの授業が細々と続いている。マイクカメラを使って、疑似教室みたいな感じで授業が進められる。


この前の記事で、発音の仕方について少し書いた。今日はその話を続けてみたい。

 

www.logical-notes.com

ゆっくりきちんと読むことが大切

 


1日目。

 

先生がAさんに文章を読むように言った。彼女はいわゆる「流暢に」読もうとして文章を読んだ。私は「スラスラ読めてうらやましいな」と思った。


その後、先生は私を指名した。私は「この人の後に読むのは嫌だな。でも、仕方ないからいつものように読もう」と思って、ゆっくり、でも音節とアクセントをできる限り大切にして読んでみた。読み終わった後、「Bravo!、上手に読んだね」とお褒めの言葉を頂いた。


このとき、褒められたのは嬉しかったのだが、少し意外な感じがした。「スラスラ読むよりも、まずはゆっくり丁寧に読むことの方が『やっぱり』大切なんだ」と気づかされたのだ。


2日目。

 

例によって文章を読む場になった。先生は「誰が読むの」と言う。誰も私が読みますとは言わない。そこで、先生は私を名指しした。


この2日間の体験から、ゆっくり丁寧に読むことがまず大切で、その後必要であればスピードが要求されることを確信した。これは別に私が上手に読めていることを言いたいのではなく、2人のイタリア人(私の先輩と学校の先生)が「ゆっくりきちんと読む」ことをまず大切にしていると伝えたいのである。


英語に触れる機会の多い日本人にとって、この事実(と言ってもまだ2人だが)は自分の常識を考え直す機会になった。

 

意外と深い言葉の「音」

 


さらに、イタリア人の友達とチャットをしていて気づいたことを書いてみたい。イタリア人が音節とアクセントを大切にしているなと、改めて感じたのである。


「不足する」という意味のmancareという動詞を考えてみたい。イタリア語の動詞なので、単数1人称・2人称・3人称manco, manchi, mancaと変化する。


mi manchiという表現とmi manca 〇との違いが、私は最初分からなかった。そこでイタリア人に聞いてみたら、「mi manchi」(私にはあなたが欠けている)はI miss youに近い意味なのに対して、「mi manca 〇」「私には〇が必要である」の意味であると教えてもらった。


そこでその人が「mi manchi」は日本語で何というのかと聞いてきたので、「sa bi shi i」と応えたら、意外なことを聞かれた。「どこにアクセントがあるの?」と。


私は外国人としてイタリア語を学ぶにあたり、「(日本語でそこまで重視しない!?)音節とアクセント」を意識しようとしていたが、逆にイタリア人からしたら「音節とアクセント」が当たり前になっていたのだろう。他言語(この場合日本語)にも「音節とアクセント」を求めていたのである。


私も急に言われたので、どう対応して良いか分からなかったので、普段自分が言うように「sa bi shi i」と発音して、それを音声データで送信するぐらいしかできなかった。


私が思っている以上に、イタリア語音の強弱を大切にしていることを、ここ数日で体感させてもらえた。もっともっと、イタリア人のように発音できるように、「耳」を鍛えていく必要があると思っている。

 

「ちょっと速く読んでみて」

 


日本で紹介されたかどうかわからないが、4月12日Pasqua, Easterのお祝いだったが、イタリアでも公開の儀式はできなかった。


(余談になるが、イタリア人の友達がGoogle翻訳でBuona Pasquaを訳して送ってくれた。「ハッピーイースター」と書かれていた。これって、英語をカタカナにしただけ (笑)。日本にはPasqua, Easterが文化として根付いていないことを痛感。)


公開の儀式はないものの、私たちは内輪で続けている。私は幸か不幸か、3月半ばから毎日「朗読」をしている。


あるとき、自分たちの儀式を終えた後、バチカンの儀式映像で見てみた。すると、彼らの読み方は私の100倍ぐらいはイタリア人っぽいのだが(そりゃその通りで、きっとイタリア人が読んでいる)、私の読み方もまんざらではないのではないかと思えたのだ(自画自賛・・・)。彼らも、一語一語というより、音節を大事に読んでいた。


昨日のこと。

 

いつものように、前日にイタリア人の先輩の前で翌日の聖書朗読の練習をする。少しおおげさなぐらいゆっくり、丁寧に読む。回を重ねるたびに、先輩からの注意が少なくなってきた。


読み終えて言われた。「ちょっと速く読んでみて」と。「今まではゆっくり読めと言っていたのに、急に速く読めってどういうこと?」と思いながら、読んでみた。


読めたのだ。意味の区切りきちんと間を置きながら、そこまで間違えることなく。正直、嬉しかった。知らず知らずのうちに、口が慣れていたのである。


しかし、調子に乗ってはいけない(笑)。「じゃあ、これを読んでみて」初見の文章を見せられた。もちろん、聖書朗読のようにスラスラ読めない。少し天狗になっていた私の鼻をしっかりとへし折ってくれたのだ。逆に、きちんと単語を調べて、意味を理解しながら読む練習をすれば、スラスラ読むことができることを体感した。

 

「表現を知らない」ことの苦労から「どのように表現するか」の苦労へ

 


ロジカルノーツ読書会をしている。私もSkypeで参加した。同じテキストを読むが、人によって注目するポイントは異なる点で、複数人で同じテキストを読んでそれぞれ意見を言い合うのはとても興味深い。


同じように、教会でもこのようなことをしている。ある聖書の箇所を読んで、感じたことを分かち合うのだ。ほぼ毎日、私もイタリア人と「分かち合い」をしている。その際、私は今まで原稿を書いていた。しかし、あるとき先輩が私に言った。「原稿を書かないように」と。


「出たとこ勝負」で話してみると、原稿を用意していたときよりもわかりやすいと評価してくれた。おそらく、原稿を書くために、辞書を引いて小難しい表現になっていたのだろう。私の限られた語彙力で話す方が、相手に伝わったのだ(もちろん今の語彙力で良いとは思っていないので、勉強は続けなければならない!)。


今まで補助輪をつけてしか自転車に乗れないと思っていたが、実は補助輪がなくても走れるようになっていた、あの子どもの頃の感覚を思い出してみてほしい。同じように、話すためには準備しないとできない、読むのもゆっくりでないとできないと思っていたが、実は少しずつできるようになっていたのだ。


イタリアに来た当時とは違う悩みに直面している。当時は、コミュニケーションを取るのに苦労した(もちろん今も十分ではない)。しかし、その苦労の仕方が「表現を知らない」ことの苦労ではなく、「どのように表現するか」の苦労に変わったのだ。


日本では「空気を読む」ことが大切にされている。もちろん時と場所にもよるだろうが、一から十まで全部説明するよりは、間を省いても理解できると思ったら省略することもある(私がそういう環境で過ごしただけかもしれないが)。


でも、ここではイタリア人の先輩に限らず、外国人大学に集まってくる他の国の人を見ても、「一を言ったら一(時によって一を下回る)」なのだ。「それぐらい言われなくてもわかるだろ」という考えは通用しないのだ。


だから、「分かち合い」の時にも、「それぐらい言われなくてもわかるだろ」と思って話してしまうと、「わからない」と言い返されてしまう。


だからといってあるとき、大げさなぐらい説明すると、「馬鹿にするな。それぐらいわかる」と言われてしまう。しかし、私も言い返す。「あなたが前に言ったから、こちらも説明しているんだ」と。このさじ加減が今の私には難しい。


しかし、語学を学ぶ上で、次の段階を歩んでいるんだと思うと、腹の立つこともあるが、ここまで来られたことに感謝しながら、外国での生活を楽しんでいる。


(とあるキリスト教教会関係者)

 

当ブログではGoogle Analyticsを利用して、アクセス解析を行うためにcookieを使用しております。Google Analyticsで集計したデータは、当ブログのアクセス解析や改良、改善のために使用させていただくものとします。なお、cookieは個人を特定する情報を含まずに集計しております。Googleによるデータの使用に関しては「ポリシーと規約」をご覧ください。