ロジカルノーツ - logical notes

自分の言葉でものを伝えよう

B2レベルを終えようとしているイタリア留学の現状

前の記事を書いてから、一月半ぐらいが経ってしまった。サボっていたわけではないのだが、取り立てて書くことがなかったのだ。平凡な日が続いていた。


「あっ、そろそろ何か書かないと・・・」と思っていたら、ロジカルノーツの鈴木さんから催促のメッセージをもらった。


ということで、まもなく計9ヶ月の授業が終わろうとしている。A2レベルから始まって、B2レベルを終えようとしている現状を書いてみたい。

 

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仮定文

 


イタリア語には仮定の表現3つの種類がある。

 

  • (1)Se gli studenti fanno il 70% delle assenze, non potranno sostenere l’esame.
  • (2)Se gli studenti facessero il 70% delle assenze, non potrebbero sostenere l’esame.
  • (3)Se gli studenti avessero fatto il 70% delle assenze, non avrebbero potuto sostenere l’esame.


意味を考えずに、機械的に(1)の文をいじってみた。(1)は「授業の7割以下の出席の場合は、試験を受けられません」という内容である。

 

  • (1)可能性がかなり高い・ほぼその通り
  • (2)可能性が低い
  • (3)可能性ゼロ


という違いがある。

 

  • (1)(私のように)全授業を出席している学生対象
  • (2)出席日数ギリギリの学生に向かって、「もしあと1回でも休んだらヤバいよ」
  • (3)実際に7割の出席がなかった学生に対して


というニュアンスであろうか。


私は、この仮定文の勉強をしているとき、英語の仮定法を思い出した。


「If I were a bird, I could fly.」「If I had had money, I could have bought it.」のように、急に過去形が表れたり、助動詞と動詞を組み合わせたりして「ややこしいこと」をした記憶があったので、イタリア語の仮定表現を勉強することは抵抗がなかった。


むしろ、日本語でこれら(1)から(3)をどうやって区別しているだろうかと疑問に思ったが、日本語を母語としている私は、「なんとなく」「文脈判断」で押し切っていることに気づかされた。


私は日本から2冊の日本語で書かれた参考書を持ってきた。もちろん、お世話になった書物なので悪口を言う気はない。しかし、参考書の場合は、(ケチをつけられないために?)色んなことを網羅しないといけないので、わかりにくいことがたくさんあった。もちろんこれらの書物が書かれるときには「監修」を受けるが、それが全てとは限らないのであろう。私がここに書かれた例文を持って行って先生に見せても、「それは違う」とか、「実際に言わない」一蹴されてしまうことが度々あった。もちろん私の先生が間違っている場合もあるだろう。


何が言いたいかと言えば、


(1)語学の勉強には「幅」が必要であるということだろう。「まぁ、そういう可能性もあるかな」ぐらいに考えておいた方が無難かもしれない。そこには、地域・年代・階層・・・色んな要因が絡んでいるように思う。


(2)ルール複雑にする必要はない。20年近く前に予備校で受けた授業で、先生が、「英語は5歳の子でも話せるんだよ」と言ったのを覚えている。もちろん、5歳の子が文法を完璧にマスターしているとは思えない。しかし、子どもでもわかるぐらい「単純な」ルールが使われていることをいつも意識したいと思っている。一気に批判が増えるのを覚悟してあえて言うなら、「イタリア人がそこまで意識して話しているか?」ぐらいに考えると、これらのルールが一気に軽いものになる(同じように、日本人は日本語をそこまで意識して話していない)。参考書には「あーだ、こーだ」書いてあるが、先生は「要はこういうこと」単純化してくれた。


(3)やっぱり、現地で(または、その言語を母語としている人から)学ぶことが一番だと思う。もちろん、私は外大生のように集中的に日本でイタリア語を学んでいないので、単純な比較はできない。でも、今は(特にこういうご時世だから)インターネットを使っての授業も増えてきた。予備校業界には怒られるかもしれないが、ぜひ、「ナマ」の先生をつかまえて勉強したら良いと思う。

 

直接話法と間接話法

 


意外とルール面倒くさい


本当にイタリア人が理解しているのかわからないが、今までの時制の勉強はこのためにあったのだと思う。集大成のような感じがしている。

 

生きた言葉の勉強

 


辞書(小学館)を否定するつもりはないが、伊和辞典にはわかりにくいこともある。違うイタリア語をひいても、同じ日本語訳が出てくることがある(おそらく英語でもこのようなことがあるだろう)。


例えば、「provocante」を調べたら、「(1)挑発的な、刺激的な、挑戦的な、扇動的な、(2)扇情的な、色っぽい」と出てくる。「provocatorio」を調べたら、「挑発的な、扇動的な、挑戦的な」と出てくる。「挑発的な」という意味で使いたい場合、「provocante」「provocatorio」のどちらを使えば良いのだろうか。


悩む必要はないのである(一先生の意見)。イタリア人「provocante」色っぽい女性に使い、「provocatorio」「挑発的な」の意味で使っているようである。


おばちゃん先生だから許されるのかもしれない?が、授業の時に、画面に何人かの学生の顔と上半身が映し出され、「今日ここにはprovocanteな服装と化粧をしている人はいないわね」と、日本だとセクハラ認定されそうな、でもわかりやすい?説明をしてくれた。


これはただの一例にしか過ぎないが、「辞書にはこう書いてあるけど、実際には〇〇」みたいな単語、表現を学べるのは現地にいることのメリットだと思う。

 

単語のニュアンス

 


「いばった・傲慢な」と聞いて、日本人どのような印象を持つだろうか。


私が教会関係者ということもあるのかもしれないが、自分が「傲慢である」ことのないように気をつけたいと思っている(ちなみに、日本語で言う「傲慢である」ことの反対である「謙虚」は聖書の中で出てくる「謙虚」と同じ意味ではない)。


イタリア語では「orgoglioso」という単語に「傲慢な・いばった」という意味と、「誇りに思う・満足に思う」という意味がある。


テストで良い点を取った友達に、「私はあなたを誇りに思う」と言うとき、この「orgolioso」という単語を使って言う。「orgolioso=傲慢な」となっていた私の中では、少し変な感じがした。「orgolioso」消極的な観点でしか捉えられていなかったのだが、実際は両方の観点で使えることを知った。


これは、「参考書」だけでは学べないことだと思うし、実際にコミュニケーションをとるうえで、「ニュアンス」を知ることは何よりも大切なことだと思う。

 

現時点での個人的感想

 


少し前から、イタリア語を話す友達と、意識して会うようにしている。しかも、なるべく一対一で。それは話す機会という観点で非常に大切である。少し前から、聞いて大意をつかむということに抵抗はなくなってきたが、自分が発信することには抵抗があった。


友達と話すことで、授業でも臆することなく話せるようになってきた。


イタリア人の優しさは(あくまでも私が今まで関わってきた限られた範囲だが)、一対一で話をしているときは特に、「この外国人が何を言おうとしているのか」「待って聞いてくれる」ところにあると思う。そして、一対一のときは、「母親のように」表現を訂正してくれる。


このような機会のおかげで、先日久しぶりに新聞を買って読んだときに、前よりは読めるようになっているし、映画も前よりは理解できるようになっている(気がする)。


年齢の問題もあるので、新しい表現・単語をなかなか覚えられない。しかし、耳と脳が慣れてきたのだと思う。「瞬発力」と言ってもいいかもしれない。ようやく、外に出て人と関わることが楽しくなってきたことを実感できている。


(とあるキリスト教教会関係者)

 

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