サマーです。けようです。
夏祭り、盆踊り、野外フェス🎶
(今年は見送らざるを得ない状況ですが・・)
踊りたくなってきましたね!!
ドドンッ!
さてさて、踊りについて考えるコラムですが
前回は、踊りは“遊び”でもあるのかな?遊ぶように踊るっていうし。
というくだりのところまででした。
踊りは、自由で生産性もなくて、ただ楽しい時間に我を忘れて没頭できる時間だし・・・
これは“遊び”に近いものなのかなあ?というところで。
そこで本日、第3回は、
この“遊び”について、
深く深く考えていたフランスのおじさまの思想を紹介しながら、
私の果てのない試論を少しでも進めたいと思います!
“遊び”をとことん極めたおじさんズ love
その思想家は、ロジェ・カイヨワ。
カイヨワによれば、
“遊び”は単なる「気晴らし」(『遊びと人間』、多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社、1990年。)なんだそうである。
“遊び”は、現実の世界に何も生み出さないし、自分の意思ですぐに、や~めた!とやめることもできる。
すぐに嫌になったら投げ出せる!
ルールも時間も空間も限られていて、とっても気軽に参加出来る虚構の活動なのである。
“遊び”は、とっても自由で~
仕事みたいに肩の荷も何も無い~
とても軽やかだ。
そして、
カイヨワの思想がユニークなところは、
遊びの種類を4つに分類したところにある。
その分類は競争(アゴン)、運(アレア)、模擬(ミミクリ)、眩暈(イリンクス)の4つ。
- 競争(アゴン)
- 運(アレア)
- 模擬(ミミクリ)
- 眩暈(イリンクス)
競争(アゴン)は、スポーツやチェスなど一定のルールのもと、勝ち負けを競うおなじみの遊び。
運(アレア)は運命に身をまかせることを楽しむ遊びで、宝くじとか競馬とか、カジノとか賭け事があてはまる。
模擬(ミミクリ)は、何か自分で無い他者になりきる遊びである。子どものままごとや演劇など。
眩暈(イリンクス)は、知覚をパニックに陥れ、快感を得る遊びである。何だが、怪しげだが、ジェットコースターやバンジージャンプ、自動車のスピード狂などを指す。子どもがぐるぐると回って眩暈を楽しむことや、大声でわめき散らしたり・・・「破壊」することで得られる一種の快感がこの遊びにはある。
どれも馴染みのある遊びであり分かりやすい。
話は少しそれるが・・
実は、“遊び”について考えた思想家としては、元祖にホイジンガ(1872~1945)という人がいて、カイヨワ(1913~1978)はそのホイジンガの思想を引き継いでいる。
元祖がいたのだ!
ホイジンガは法律とか、芸術とか、哲学とか、詩や昔の戦法の作法など・・・その根底には遊びがあり、全ては、遊びから始まったと考えていた。
どういうことかというと・・・
例えば戦争・・
古代の戦争は現代の大量殺戮とは違って、相手を倒すこと以上に礼儀や形式を重んじ、美しい作法や相手への敬意などを大切にしていたそうだ。
例えば習俗的な儀礼・・
カナダのインディアン族の「ポトラッチ」という儀礼があって、
それは相手よりも勝る品を贈与することで一族の名誉を示す儀礼。どちらが良い品を贈ったかということが争点となっていたそうだ。
このように文化というものが、遊びをその基盤にして、徐々に生み出されていったということである。
そこでホイジンガは、人間の本質を“ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)”と提言した。
(遊び人のことではない笑)
カイヨワは、“元祖 遊び研究発起人”のホイジンガの考えを引き継ぎ、遊びをさらに分類して、それを基点に文明の発展(これは次のトピックで)についても考えていた。
こんなに、真剣に遊びについて考えてきたおじさんたちがいることに私は敬意の念を抱くばかりである・・。
カイヨワが考えた文明論 大昔にタイムスリップ!
カイヨワは、“遊び”を4種に分けて考えたのだが、さらに面白いことに、
それをもとに古代から近代への文明の発展について当てはめて考えていたのだ。
- 競争(アゴン)
- 運(アレア)
- 模擬(ミミクリ)
- 眩暈(イリンクス)
どういうことかというと・・・・
少しタイムスリップしよう。Let’s タイムトラベル。
大昔、まだ文明が進化していない頃のこと。
(※この時代の描写はカイヨワの『遊びと人間』で登場するものである。)
シャーマン(宗教的な職能のある人物)が仮面をつけて“踊り”や“音楽”で陶酔して自己を酩酊させ、神と交信し、村の意思を決定したりしていたことがあった。それを見ている人も、熱狂や酩酊の渦に連れ込んで・・・と、こういった現象をもとに民衆を統治していた。
このようなシーンは、またどこかのテレビ番組で、未開の部族の祭りや儀式のシーンで見たことがある方もいらっしゃるだろう・・。
法律など現代のように理屈で統治するのではなく、
人々を酩酊させ熱狂の感覚により統治していた。
(みんなパーティーピープル的だったのかなあ・・・うお~いえーいって。さらには、とても神聖で恐ろしいという感覚を人々に抱かせていたのかなあ、秋田のなまはげのように・・)
この頃は科学も法律もないし、災害や病気が蔓延する中、その原因もわからないから、神など何者かにすがり、すごい!とか恐ろしい!とか感覚でうったえて人々を統制するしかなかったのだろう。
逆に、現代は、法律というルールがあって、それに則って、社会が統治されている。病気や災害も、科学的な根拠がある程度わかるので、病院に行ったり、避難したり、その原因を除去したり未然に防止したりする。
学校の受験や会社の入社なんか、一定の試験(競争)があったりして、皆個人のスキルを磨き他者とも競争しながら日々暮らしている。
ここに、カイヨワは、遊びの性質を持ち出してくる。
「競争(アゴン)/運(アレア)」、「模擬(ミミクリ)/眩暈(イリンクス)」同士の組み合わせを社会の特徴に重ねるのだ。
資本主義社会が台頭している現代社会は「競争(アゴン)/運(アレア)」の組み合わせの性質を持ち、古代の未開の原始的な社会は「模擬(ミミクリ)/眩暈(イリンクス)」の組み合わさった性質があるとする。
どういうことかというと・・・
現代社会は、資本主義における決まり事や法律などのルールのもと、生まれた環境や突然起こる出来事という運命の中、個人の能力を磨きながら、会社や学校で他者と競争し、創意工夫をして暮らす社会のことである。つまり、出生の境遇といった運命(アレア)と個人の能力(アゴン)との妥協と調整によって社会関係が成り立っているような社会のことを指している。
原始的な社会は、政治において宗教的な色合いが濃く、それにより社会の結束を維持している社会である。例えば、統治者が仮面をつけ太鼓のリズムや音楽に合わせながら身体を激しく揺さぶり忘我の状況に陥り、神が憑依するなどして政治的な決定を行っているような社会である。原始社会における宗教的政治の場面で統治者は、「至上の霊感に身を委ね、常に即興的振舞いをしている」(『遊びと人間』)。つまり、仮面(ミミクリ)と身体を翻弄させることで得られる眩暈(イリンクス)の融合によって恍惚を起こすような妖術によって人々を惹きつけ統一している社会のことである。
これらを図にすると・・・
こんなイメージである。
原始社会から現代社会への移行は、混沌とした状態から、なんでも人間の手中で合理的にコントロールをかけていくことだとカイヨワは考え、それを“文明化”と呼んだ。
そして現代の“遊び”は、混沌とした原始社会に戻らないように、“遊び”の中で人々の本能を満たし、予防線を張るためにあるというのだ。
カイヨワは遊びの行き過ぎをダメ!なことと考えていて、それは、例えば、競争(アゴン)の遊びが行き過ぎると暴力や戦争に、運(アレア)が行き過ぎると、迷信を信じるようになって、模擬(ミミクリ)が堕落していくと、狂気や二重人格になり、眩暈(イリンクス)が行き過ぎると、麻薬の常習やアルコール中毒になると警戒する。
なので、ジェットコースターやバンジージャンプのように自分の感覚を破壊したり冒険したり、競馬などの賭け事で運命をかけて遊んで満足感を与え、それが日々の生活にまで侵食して行き過ぎないために、いつでもすぐにや~めた!と中断できる、コントロール自在な遊びが現代人には用意されているのである。
踊り×遊び
さて、踊りのことに戻ろう。
カイヨワは遊びについて、
① 自由で、
② 虚構で、
③ 非生産的で、
④ 隔離された時空間で行われる
もしくは
⑤ ルールがあるもので、
⑥ 結果が未確定なもの、
と6つの条件を挙げている。
ちょっとばかし硬い文章になるが、
踊りと比べてみると、踊りは・・・
①“自由”で
現実世界とは別の②“非現実(虚構)”の世界で行われ、
“それ自体に目的を持たず”、踊りを踊ることそのこと自体に意味を持ち、③何かを生産するわけでもなく(非生産)、
④限定された時間と場所で行われ、
⑥手や足から生み出される動きは“未確定”である。
形式的なことについて言えば、踊りは、カイヨワのいう“遊び”の仲間なのだろうと想像がつく。
しかーし!
冒頭にも書いたようにカイヨワによると、遊びは“自分の意思でコントロール可能なもの”にとどまる。つまりいつでも自由に自分の意思でや~めた!と止めることができることが大きな大きな条件であり、自分の意思でどうにもコントロールできないことは“遊び”ではないのだ。
ということは、踊りはどうだろう??
はて、自分の意思で止められるものか?
コントロールできないっ!?
私は、第1回の記事で、踊りを考える際には、
盆踊りにストリートダンスにバレエに巫女さんの舞にガッツポーズにベットでのぴょんぴょん跳ねも踊りの仲間に全部ひっくるめて入れてみて、と言っていた。
音を聞くと勝手に体が動き出し、音の中で体を動かすうちに、自分というものをすっかりと忘れてしまうことが踊りにはある。
そして、ガッツポーズなんかは自然にわっと出てくるポーズだし。
なので、“自分の意識下にない瞬間”は少なからず“踊り”の中にあるんじゃないかと思う。
でも、意識なく踊っていて自分で止められない~!と言うと言い過ぎな気もするが、踊りは、コントロール自在とまでも言えない気もする。
なぜなら意識を超えている瞬間があること、それがむしろ踊りの醍醐味でもある気がするから。
カイヨワの思想に触れる中で、
大昔の時代にあった・・・仮面をつけて、“踊り”、“歌い”、狂気錯乱の中、酩酊し自己を失う・・・というこの“自分の意識下でコントロールできない”というシーンがあって、
“自分の意識下にない瞬間”の存在を踊りの中に強く感じるようになった。
古代の仮面儀礼の中の踊りは少なくとも、意識のコントロールを超えている。
踊りは、“遊び”に似ているけど、人間の祈りや不意に湧き出る身体表現を含めた踊り(広範囲)はカイヨワの考える現代人の“遊び”の枠では収まりきらない気がしてくる。混沌とした原始社会に戻らないように、人々の本能を満たし、予防線を張るためにある、単なる気晴らしの“遊び”では収まりきらないんじゃないか。
“制御不能”、“自分の意識下にない”ということは踊りを考える上で重要なんだろう、とますます思えてくる。
少しだけ、“遊び”を通して気づきを得ることができたよ、カイヨワのおじさんありがとう。
つづく・・
(けよう)