けようです。
まだまだステイホームな日々が続きます。
閉塞感が拭えない日々で、皆さんも、ずんちゃかどんちゃか、踊りたい気分の時もあるのではないでしょうか?!
私は、踊りたいっ!!笑
さてさて、昨年秋にコミュニティダンスなるものに初めて触れたんです!
少しばかり聞いてください。
それはそれは、新しい世界観でした。
良い意味で、頭を揺さぶられ、目が醒めたような感覚がありました。
コミュニティダンスとは、年齢や性別や体の特徴や障がいの有無、ダンスの経験に関わらず、誰もが踊れるものです。振りとか、型とかから始めるのではなく、リズム感がないからダメだ・あるから良いとかいう価値観でもありません。
踊りを通しての表現、意志の疎通、他者とのコミュニケーションなどを目指し、社会の中で人々に寄り添っていく踊りの活動です。(私なりの解釈です)
この時の公演の会場は、なんと、古い京町屋でした。
1階も2階も町屋の風呂も会場となり、障子や畳も演出の中に。
その中の1つの公演で・・・
お風呂場を覗くという公演があり、お客さんは一人ずつ順番に中を覗きます。
私の番が来ました、、
そこには・・・、お風呂場に下半身だけタオルを巻いて、シャンプーハットをかぶった中年の男性が浴槽に三角座りし、笛の演奏に合わせて手を巧みに動かしていました。
その公演を拝見したとたん、私の中の古い価値観が崩れ、新しい感覚が芽生えました。
『ほんまに、どんな人でも踊ってる!どんな動きも、表現に取り入れられる!この空間全体が丸ごと演出や!』と。
今まで、ストリートダンスに傾倒し、リズムダンスの価値観しか実感したことのない自分には、とても新鮮な出来事でした。
さて~~、前回から少し時間が空いてしまいましたが。
前回は、踊りが遊びなのでは?遊びに似ているのでは?というお話をしました。
踊りは、遊びのようなものなんですが、カイヨワというフランスのおじさんの考えから、“制御不能”、“意識下にない”ものでもあり、その点で遊びとは違うんだということに気づきました。
踊りは、“意識して”主体的に踊るものでもありますし、“意識なく”、“自分の制御の範疇を超えていく”ものでもあり、そのどちらの面も持ち合わせているのが、踊りなのではないかと私は考えます。
踊り踊らされ
コラム1回目の「わっと動きが噴き出してくる」で書いたように、
ストリートダンスが、ある程度踊れるようになると、すべての動きを1から10まで頭で意識して踊るのではなく、音がかかると体が動き出したり、とっさに出た動きに自分が逆に引っ張られて、楽しい時がある。そして、ガッツポーズが自然に体から湧き出てくる瞬間がある。
盆踊りの輪もある程度、盛り上がってくると、その場に溶け込んで、自分と周りが一体化して、手足をこうこう、と意識している感覚も薄れていく。私はバレエも巫女さんの舞もしたことがないので、わからないのだけれど、きっとすべての動きを1から10まで頭で意識して踊っているのではない気がしている。
一方で表現したり、創作したりと自分の意思で作っていく・踊っていくということ、他方で自分の身体が自然と動いたり、音楽に身を任せていくという両面が、踊りにはあるのではないだろうか。
臨床心理学者の霜山徳爾は、「踊る人間」と題し、このようなことを述べる。
すなわちおどりは---もとよりそれぞれの意味のある志向的な行為でありながらも---また「動かされる」「おどらされる」という点も持っているのです。つまり、おどりというものは、ある場合には、自らがおどり動いているという感じや、手振り身振りを自ら意識していることは少なくなって、なにかある波のような動きにのせられてほとんど自動的に身体が動かされているという風になるものです。
能動的ではあるけれども、同時に受動的でもあるというこの逆説性こそおどりの強い快楽であり、原始的な舞踊の陶酔や情熱でもあるわけです。
(霜山徳爾『明日が信じられない』、「踊る人間」、学樹書院、1999年、p.215)
まさに、私が思っていたことと似ている考えが霜山の記述から伺え、なんだか嬉しくなる。
「能動的ではあるけれども、同時に受動的でもあるというこの逆説性こそおどりの強い快楽であり、原始的な舞踊の陶酔や情熱でもある」と。
踊りと身体
ただし、霜山は、生き生きとしたリズムの中に自らを喪失することをおどりであるとするのは、行きすぎだと指摘する。なぜなら、高度に芸術的な舞踊には、反対に「生き生きとした身体運動の精神化という不思議をみる」からだという。
どういうことかというと、おどりの手のこなし、足の運びや身体のうねりの中に表情や意図を見ることができるということだ。おどりは、私たちが日常で行う会話や表情以上に、「もっとこまやかな感情・意向とを意図として表現」できるものだと霜山は言う。
身体を通して、様々な表現ができる。
それは、太古から続き、豊作を祈り神に捧げる踊りなど、宗教的な意味合いも踊りには含まれる。ブラジルのリオのカーニバルのサンバダンス、お祭り騒ぎで踊るダンス。そして、私が昨年出会った、中年男性のコミュニティダンスのワンシーン。
いろいろなおどりがあるが、どれも身体を通しての出来事だ。
では、踊りにとって、「身体」ってなんだろう?
ついに「身体」というキーワードが自分の中に浮かび上がり、引っかかるようになった。
コミュニティダンスの表現を見ていると、この踊りを生み出している(生み出すということではないのかもしれない!?)「身体は何者なのだろう?」と、今、私は行き着いている。
霜山は、こう述べる。
おどり手はまさにその身体をして、本来ならば精神のみが可能であることをなさしめるのであり、それによっておどり手は彼の身体性という自然を昂揚せしめるのです。彼の身体は自分自身に打ちかつ力を獲得し、それを限りない可能性の中に発展せしめるのです。おどりは自己の身体と遊戯することではありません。
(前掲書、p.220)
普段私たちが行う表現を、身体全体、足や手や首、腰、指先を通じて、さらに高めて、そして自分自身までもが、伸びやかに力強く解放され発展していくような感覚を覚えるということなのだろうか。この霜山の文章は抽象的で難しい・・・。
そして最後に霜山は、おどりは、身体を使った遊びではないと言っている。
身体は、おどりの対象ではないと。
単に身体を動かすことだけでは、霜山の考えるおどりでは無いのだろう。
精神と身体との関係を言い出すと訳が分からなってしまうのだが・・、精神的な喜怒哀楽などの表情や意図する表現と、身体とが関係しないとおどりにはならないということだろうか。
また、霜山は人間の地上的な重さ(重力のことだと思われる)や生物的な制約といった、人間を締め付けている現実から解き放たれることも、おどりの魅力の1つで、それが古来からおどりが存続している所以なのではないかと、いう。
重力の重み、二足歩行のストレス、自分が女であること、年齢を重ねていくことなど私を取り巻く様々な生物的な制約や重圧。
このような制約から放たれる瞬間は確かにおどりの根底にあると私も思った。
どんな存在にも変身でき、その存在からも解き放たれる瞬間、自分を超え出ていく瞬間をダンスの中で感じるというのは、人間が「身体」を持つ生き物だからそう思うのかなと思う。
ますます、おどりと「身体」についての好奇心が膨らんでいったところで、なぜ、人は踊る?というもやもや、うろうろとした果てのない試論シリーズはここで一度、筆を置かせていただくことにします。
そして、踊りのために次なる思索の旅に出かけます。
(けよう)