いろいろな要因から日本の教育システムの変更が話題になっています。
多くの場合、主体性がキーワードとなって語られますが、「主体的に学ぶ」というのは簡単なことではなく、それを促進するシステムが必要なのではないでしょうか。
これを考えるヒントになると思われるのが、P4C(Philosophy for Children)。「子どものための哲学」を意味するものです。
今回、哲学者の鷲田清一氏のもとで学ぶため、働きながら哲学研究科(大学院)へ進学し、哲学カフェを開催するなど、「哲学」と向き合っておられるけようさんにP4Cについて語っていただきました。
ぴ~ふぉ~し~
ぴ〜ふぉ〜し〜!!
叫んでみました。
いきなり、なんなんだ!(汗)
最近の社会の閉塞感でマイってしまったのか?!
と思われた方もいらっしゃると思いますが、P4Cのことです。
語呂が良いので、言ってみたくなりました。
P4Cとはphilosophy for children=子どものための哲学のこと。
logical notesの主催者である吉崎様からこのような取り組みがあることを教えていただきました。
P4Cは主に小中学校の教育現場で行われている哲学を取り入れた手法*123のことで、「子どもたちが自ら問いを立て、その問いを共有し、対話によって思考を深めていくという哲学実践」です。
つまりそれは、子どもたちが、主体的になって、ふだん疑問に思うことを発言し合い、その中からみんなが興味を持っているテーマ(問い)を決めて、それについて自由に自分の思うことを平等に発言していく時間です。
ふだん学校で行われている授業は、先生が答えを持っていて、それに対して子どもたちを誘導していく授業が多いですが、P4Cは子どもたちの主体性を大切にします。
ふむ。
では具体的にそれはどのように行われているのでしょうか。
<step1>輪になって座り
講義形式ではなく、みんなの顔が見えるように輪になります。誰が偉くて誰が教える、ではなく、みんなが平等に対話に参加できることを「輪」が表現しています。
<step2>みんなで問いを選び
全員で黒板に書き出して、一人一票の投票で問いを決めます。先生が一方的に決めるのではありません。
<step3>コミュニティボールを使って対話
みんなで作ったふわふわの毛糸(なんか癒される〜←ポイントやと思います)のコミュニティボールを持っている人が話を始めます。次に話す人にボールを渡して、ボールを持った人が話をします。ボールが来ても、パスすることもできます。
否定や批判をせず、お互いを尊重し、話をよく聞くことがこの場のルール。
<step4>振り返り
今日の対話をみんなで評価します。
参加度合いは?興味深かったか?対話が深まったか?etc
また、進行役は先生が行うケースが多いですが、その際は、教える立場ではなく一人の参加者としても発言を行います。
このP4Cを通して、次のようなことが成果となっているようです。
- 「物事に正解はない」、「みんなで話し合ったことが成果で、話し合いをもとに考えが深まっていく」ということを経験できる。そして、「対話が楽しい」ことであることを体感。
- 答えがないからこそ、クラス内での位置づけ(成績をはじめ個人の能力の差など)にかかわらない発言が、安心してしやすくなり、誰もが等しく思考の言語化や発信の経験ができる。
- 他者の話を真摯に聞き、他者の考えを受け入れる姿勢が獲得できる。
今回は、P4Cを参考に、子どもに対して哲学ができること、哲学がどういう風に子どもたちに寄り添って行けばいいのかを徒然と考えてみたいと思います。
*1 p4c japan公式サイトの「基本のステップ」参照
*2 庄子修・堀越清治「教育現場におけるp4c活用の可能性を探る」、宮城教育大学教育復興支援センター紀要3第巻抜刷、2015年
*3 川﨑惣一「p4c(子どもの哲学)は教員養成教育にどのように寄与することができるか」、宮城教育大学紀要52巻、2018年
子どもってなんだろう?
さて。まず考えてみたいこと。
現代の子どもはどのような状況にあるのでしょうか。
- 社会にでる前の状況。
- 脳や体が発達途上にある状態。
- 親に守られている状況。親の管理下でしか物事ができない。子の意思はほぼ親の意思?でも子にも意思がある。
- 自我が芽生える前あるいは途中の段階にある状況。
- 知識が少ない状況。
- 義務教育など、教育の機関に大半が属し、文科省の定める学習指導要領等に基づき学びを受けている状況。
- スポーツ、習いごと、塾で忙しい。
- 学校の中で同じ年くらいの年代の友達と毎日過ごし、家に帰って兄弟や家族と過ごしてゲームして・・・。
脳も体も発展途上で、親の元にあって、日々学校に通う、すごくすごく守られた“シェルターの中”にいるような状態なのでしょう。
社会の一員として、活躍するための準備を丁寧にしているような段階ともいうのでしょうか。
時代は移り変われど、誰しもが皆、子どもでした。
私も。
少し自分のことを振り返りつつ、身近な話をもとに考えてみたいと思います。
私(1985年生まれ 現在35歳女)の子どもの頃と言いますと、
公立小学校1年〜3年・・・とりあえず学校に行って友達と遊んだり習いごとをしたり兄弟と遊んだり。学校の生活と家庭の生活が半々でした。
公立小学校4年〜6年・・・学習塾に行きだして中学へのお受験を目指す傍ら、TVのアイドルを意識したり服装を意識したり異性を気にしたり。自我が芽生え始めて、大人が思っているよりもずっと視点は大人でした。キャリアウーマンやスーパーモデルなど、びっくりするくらい何にでもなれる気がしていました。(笑)
学校生活も楽しく先生とも仲良くしています。
公立中学校に入ると・・・途端に監獄に入ったかのような指導を教師から受け、怒られる日々(別に悪いことはしていない)、規律を守ることばかりの日々でした。
正直びっくりしました。靴下・靴は白、前髪は眉毛より上、髪の毛は耳より上で結んではいけない、マフラーは禁止(首を絞める奴がいるかもしれないからと言う理由)・・・あまりにも根拠のないワケのわからない規律(意味はないが、規律を守るということに意図があったのだろうと今になってわかりました)に、日々高校受験に向けた内容の授業。
修学旅行に行く新幹線に乗る練習を校庭で行った記憶も・・・。とにかく軍隊式のような教育でした。
今でも鮮明に覚えていますが、いくつか授業の中で、教師の奇妙な光景がありました。
金●シェイキング(shaking)タイム
授業中、ふざけた男子や話を聞いていない男子に、「今から金●シェイキングタイムや!(英語の授業だったので、ゴールデンボールシェイキングタイムと訳された)」と教師が大きな声で言いながら、男子を廊下に連れ出して、男子の下半身をいたぶるというものです。いわゆる体罰のようなものなのでしょう。
「君たち、慣れがダレに変わってきている」と教師はいつも口癖のように言っていました。
1時間の授業をずっと目を閉じさせられて、説教を聞く
ある授業で、授業をせず、教師が1時間説教をして、終わる。生徒は、黙想を強要され、目を閉じたままずーと説教を聞いている。
特に何かをしでかしたわけでもなく、「君たち最近ダレてきている」という理由だったと記憶が。。
ものすごい権力を乱用した教育がまかり通っていました。本当に、教育というより監獄で、「慣れがダレになる」という言葉からもわかるように、規律を守ることだけが教育で重視されていました。P4Cにあるような、先生と生徒が対等な関係など一切ありません。
公立中学3年生~県立高校生・・・中3は受験を目指し高校への憧れをいだきながら過ごし、高校へ入ると、他の地域からやってくる都会の子の大人っぽさのギャップにびっくりします。少し大きな世界に出たような。
ただしやっていることは、大学受験に向けた勉強と部活。時に恋愛。進学校だったこともあり今度は次の大学生を夢見て目指す日々が。。。淡々と教師が授業を行い、あとは放任主義という感じでした。
大学に入り・・・バイトやサークル三昧、気づけば3年生になり、就職するか研究するかを悩みます。もう社会にでるまでわずかという感じ。自分で稼いだお金もあり、自由も手に入れ出す。自分で旅に出たり。本当に自分のやりたいこと、人生って、と真剣に悩みます。
そして社会人へ・・
1985年生まれの私の世代ではごく一般的な人生の軌跡ではないかと思います。一般的な公立の学校へ進学した、だいたいの子どもが通るような環境なのでは。
そういえば!
子どものことを考えていて、ふと大学時代に知ったことを思い出しました!
大昔の子どもは、かつて<小さな大人>とされ、大人と同じように労働力として扱われていたという話です。つまり中世には子どもという“概念”がなかったと。
これは、歴史学者のフィリップ・アリエスという人による、とても有名な歴史的論証(『子供の誕生』)です。
アリエスによれば、中世のヨーロッパでは、子ども時代といった今のような子どもが保護される期間がなかったようです。
昔の日本の農村でも子どもは労働力として当てにされていたと聞いたことがあるので、今ほど子どもが保護されている時代は珍しいのかもしれません。
現代のたいていの子ども達は、社会から守られて親から受ける愛情も半端なくて、大事に大事にと、アリエスの言う時代に比べると、あまりにも“子ども時代”とは繊細なことのようです。親との距離が近く、親も子どももよく言えば一心同体で、悪く言えばお互いの距離が密で、隙間がない気がします。
おじいちゃんおばあちゃん同居は今や珍しく、近所のコミュニティも希薄なので、ますます家庭内が濃密です。
しかし一方では、父母が働きに出て忙しい家庭も増え、親と接する時間が少ないために、家庭における子どもの孤食も課題となっています。子どもに関わる人が限られ、子育てが濃密になる一方で、孤独感を覚える子どももいます。
いろいろと話が膨らみましたが、
さて、この現代の子どもたちに、哲学が寄り添えることは一体何か。
そして、今後は、子どもたちを取り巻くこの世界はどうなっていくんでしょうか。
自分の学生時代の経験をもとにした内容でもありますので、いささか最近の状況とは違うかもしれませんが・・・この背景を参考に話を進めます。
子どもの時代に培われるもの 大人になって足りないと思ったこと そしてこれから・・・
小学校から中学校そして高校までの自分を振り返ると、そこには、自分の考えを発表し、他人と議論して何かを作り上げるような時間が学校の中にほとんどなかったと思います。
それは、大人が社会で行っている、“仕事”に近いこと(自ら気づいて考えて発信すること)です。
人と対話して、時にああでもないこうでもないと言い合い、また自分の考えを話して、まとめて、発表して、説明して。ということです。
教科書に書いてある通りに授業はとりあえず進んでいく・・それを覚える・・・そして受験や次のステップのために勉強をする・・・。少なくとも大学に入るまではこの繰り返しでした。
子どもの頃、議論や空想や創造は、友達との“遊び”の中にしかありませんでした。
今でも覚えているのが、中高生の時、国語の授業で、本読みを当てられる瞬間・・
「では〇〇さんこのページを読んでください」(by先生)
この頃、異常に緊張しいだった私は、この瞬間、震えおののき、頭の中が真っ白になるくらい苦痛なことでした。これがあるから学校に行きたくないくらい嫌でした。それほど、人前で話すことなんて慣れてもいないことでした。
この程度のことで嫌でしたので、自分の考えをみんなの前で表現することなんて考えられない具合でしたし、それは授業の中にもないし、それを楽しいこと・社会に出て本当に大事なスキルという認識もさっぱりありません。
P4Cが大切にしている、コミュニティの中での「セイフティ」、つまり自分のことや考えを発言しても「安心!」という状況をあまり体感できなかったんだろうなと思います。まず、人との対話の入り口で、「安心」感や自信を持てることはとても大事で、「セイフティ」を感じて発言することで自信につながっていくのだと思います。
今、大人になって、仕事をしていてこのスキルが大事やなと痛感するシーンが多いです。
このような経験があまりなかったと言いましたが、大学生になってようやく体験する機会がありました。ゼミに配属されて、卒論に取り組んだことが一番近かったです。就職活動の直前でした。
とても自分にとって良い経験となりましたが、これではあまりに遅すぎませんか。場数を踏む年数が少ないと思います。
だからP4Cの取り組みを通じて、自分が主体的に発言することが身体に染み込むほど、当たり前の文化となること。それが子どもの頃から普通(スタンダード)になる教育の取り組みは、必要なことだと素朴に思ってしまいます。
教育と社会で求められる内容のギャップ
これから、ITがますます発展することで、現在ある仕事が減っていくという噂をよく耳にします。
計算や単純作業は、コンピューターが行うから、代わりに、考える仕事や人を癒す仕事、感性を生かす仕事など人間にしかできない仕事が残り、需要が増えるという説です。
もし、ますますクリエイティブ(?)=考えること、感性を生かすこと、想像力を働かせることがこれからの人間に求められるならば、現状を俯瞰して、相手の話をじっくり聞いて対話し、自ら考えて形にし、自ら発信する能力がますます重要になる時代がやってくると思います。
現に、大学入試改革も進んでおり、記憶型の学力より、「思考力」「判断力」「表現力」が求められる内容になるとのことです。
これは、少子高齢化社会に突入し、人口減少や労働力の低下など、誰も答えを持ち合わせていない課題が出てきており、さらに課題も複雑化している時代にさしかかってきているため、これらの未知なる課題を解決出来る人材を育てるというビジョンを政府は描いているからです。
ということは、勤勉に知識を黙々と記憶していく能力が必要とされなくなるとしたら、今、優等生として扱われている人間の評価が逆転していくのかな?とも思います。怖いような面白いような、ですね。
語弊がないようにですが、昭和のツッパリとか平成のヤンキー、令和の??も評価される人が出てくるのでは?と思います。こう言う不良≒ヤンキーみたいな言葉もなくなるのかな?
学校の勉強はしない。けど、友情に厚く、目立ちたがり屋、楽しいことが好き、遊びなれているので歌やダンスが上手い。おしゃれ。
もし、創造力や表現力をはかる授業で、ダンスや歌があったら、絶対に成績良いだろう。クリエイティブなヤンキーには勝てないだろう。とか思ったりします。
しかし、クリエイティブということなので、周りの友達に右にならえで、ただ権力に反抗しているだけではダメなのかもしれません。難しい。
この新しい時代に求められる能力とは、答えのない中から、自分たちで問いを立てて、考えて、形にして、表現・発信していく力であるならば、これはP4Cで模擬実践していることに近い、まさに哲学的な営みです。
今後このような能力を持った人材が育ち、逆に、「ITで作業を効率化し人間が行うのは考える仕事だけということは本当に善いことなのだろうか?」という根本的な問いに返って、先人の大人が作ったこの既成概念(ビジョン?)を立て直すような倫理的考察を行う人間が増えるところまでを期待します。そして、その考察を教育の取り組みへまた還元していく。
まず、どんな世の中にしていくのか、どんな世の中が幸福なのか?ということが社会の鍵で、その次に、では教育を通じてどんな人材を育てていくか?を考えていかねばならないと思います。この順序が前後してはいけないと思います。
以前の記事で、社会と哲学のギャップを感じたことについて書きました。
社会(仕事)でいきなり哲学を実践する!というのは、無理があるので・・・・汗。
大学入試を変えるだけでなく、時間のある子ども時代(小学校から)に、「対話すること」や「人の話を聞くこと・受け入れること」、「正解はないということ」といった哲学的な実践を教育課程に取り入れてじっくりと取り組んで行くことが、大人になった時に、前例踏襲ではない問題解決能力をもった人材を育てることにつながっていくと思います。
哲学カフェとの違い、振り返って
P4Cで良いと思ったのは、“発言してもいいんだ”という「セイフティ」=安心感をコミュニティ内に作るということでした。
まず、自分の発言が安心してできること、そして今度は、人の話もじっくりと聞いてあげること。この基礎が本当に大切だと思います。
しかし、P4Cの課題では?思ったことが1つあります。
それは学校現場で行われるので、「同じ顔、顔見知り」としか対話しないことです。
私は、ぜひ、違う年代の、違う価値観に触れる時間もあってほしいと思います。学校を飛び出すか、学校にゲストを招くか。学校内で行うことにも相当の価値と意味はありますが、私が行ったような哲学カフェの醍醐味は、やはり「見ず知らずの他人が何気ないテーマについてああでもないこうでもないと言い合うこと」なので、ぜひ、自分と違う価値観の人間を学校現場のP4Cに入れるべきではないかと考えます。
近所のおじいさんおばあさん、よく行くスーパーやコンビニの店員さんでもいいのでは?普段あまり話さない、校長先生や校内の用務員さんでも。外国から来た方も。政治家も。
身近なところから。
身分はまず隠して、最後に公表するのがいいかもしれません。
過去の自分は、学校の勉強を真面目にこなし(子どもの頃から勉強が嫌いじゃなかった)、進学校の高校に進み、進学以外の価値観をほとんど知らずに大学生まで来ました。進学以外の道についてその価値を知らないということは、どうなんだろうと・・大人になって悶々としたりする時もありました。
いろいろな人が世界にいることを知ることで、それが子どものセイフティ(安心感)につながればと思います。
昨今のSNSやyoutube動画は手段としてはとても便利です。その繋がりもいいのですが、SNSでは自分(親など)の興味の範囲でしか繋がれなくて、“世界の断片”しか見れないと私は思います。
子どもたちには、自分が一緒にいろんな人と共存している、様々な人がこの世界にいることの想像を膨らませてほしいと思います。
いろいろとグネグネつらつらとりとめもなく書いてしまいましたが、
- もっと対話を楽しんで、恐れずにできること。
- 話を聞けること。
- 世界にいろんな人がいることを知っておくこと。
- そして自分は一人でないこと。
このように子どもたちがまず自己肯定感を持てることに、哲学が寄り添えたら。
これがまず社会の基盤になってほしいと願います。
(けよう)