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【寄稿】とある教会関係者の言語学習体験記(3)ラテン語

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学習するいきさつ


私がこのブログを書くように頼まれた大きな理由は、ここからのことが関連しているのではないかと推測する。ラテン語を学習している人は世の中にある程度いらっしゃるだろうが、そこまで多くないだろう。私は言語に興味を持ってラテン語を勉強し始めたというより、「必要に迫られて」勉強してきた。しかし、「必要に迫られて」の勉強開始だったものの、結果的に今も(細々と)続けるぐらい好きになったのだ。


その「必要」とは、カトリック教会で使われていた(いる)ことである。古典語を勉強するのが目的ではなく、教会の文化や歴史を勉強するのが目的である。特にカトリック教会で最も大切にしている「ミサ」の式次第ラテン語で読むことで、日本語で味わう以上の学びと感動を得られた。

 

フランス語を勉強していて良かった

 

とは言うものの、いきなり「ミサ」の式次第を読めるようになったわけではない。フランス語動詞の人称・性数変化、名詞の性を勉強した時は「細かいし面倒くさい」と思ったが、ラテン語はもっと面倒な言語である。名詞の格変化はあるし、変化のパターンもいくつかある。フランス語は覚えていないが、ラテン語の動詞変化もいくつかパターンがある。細かすぎるのである。(本当は覚えないといけないのだろうが、今でもまだまだ覚えられていない。)


これだけ細かいと嫌になるのが普通かもしれない。しかし、ラテン語を学ぶ数年前にフランス語に触れていたおかげで、少し耐性ができていた。さらに、ラテン語を学びたいという意欲はあったので、コツコツ取り組むことはできた。

 

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テキストとして使ったのは、土岐健治・井阪民子「楽しいラテン語」教文館(2002)で、独学で勉強するには少し大変であるが、神学院の授業で使ったので理解しながら進められたし、関連することを書き込んでいったので、今でも重宝している。

 

「ほとんど例外がない」ということは、読めないのは自分のせい


先ほど述べたが、単語の分析がきっちりできるのがラテン語の特徴であると思う。


名詞形容詞なら「性・数・格」を特定できるし、動詞「法」によって形が変わるし、それによってニュアンスが変わるので、ある意味で機械的に読むことはできる。


そして、自分の知っているルールで対応できない文法事項に出会うと、それは自分の知識がないからだと、割り切ることができる。1文字でもいい加減なことがないのだ。あっぱれ!といったところだろうか。

 

例文①

 

私は、カトリック教会で使われる「ローマ・ミサ典礼書」が初めて出会ったラテン語の書物なので、その中から例をあげていきたい。


儀式が始まる前に、注記が書かれている。日本語では「会衆が集まると、~」となっている。この日本語の表現しか知らないと、何も疑うことがなく読み進めるだろう。


原文では、次のようになっている。

 

Populo congregato, dum ingreditur sacerdos cum ministris, cantus ad introitum incipitur.


「populo」「populus」という名詞で、「人々」と訳される。「congregato」「congrego」という動詞「集める・集まる」と訳される。しかし、よく見ると、それぞれ語尾の形がちょっと違うことに気がつく。


(ラテン語を嫌う人はこの部分を面倒くさいと思うかもしれないが、)私は、これをパズルやゲームの感覚で捉えたのである。「populus」がどうにか変化して「populo」になり、「congrego」「congregato」に変化していくその過程を見つけられたとき、「解けた!」という喜びを得られ、さらにその意味を理解したときに、「なるほど」と思ったのである。


ここでは、「3分クッキング」のように結論を一気にお伝えする。


「populo」奪格形「congregato」完了受動分詞の奪格形となる。次に、奪格の名詞奪格の分詞絶対奪格(分詞構文みたいなもの)となることを思い出せば良い。「congregato」完了受動分詞なので、「populo(人々)」「congregato」の主語ではなく、目的語の関係・受け身の意味となり、「人々が集まる」ではなく、「人々が集められる」となる。


要は、日本語では「会衆が集まると、~」となっているところは、「会衆が集められると、~」となることが言いたいのだ。現象としては同じことを言っているように見えるが、受動態で理解することは、動作主を考える必要がある。「誰によって」会衆が集められるのだろうか、私たちは「神によって」と考える。つまり、ミサに行こうと思って、私たちが家を出てくるよりも先に、神の意志が働いているということが、この「絶対奪格」の構文から読み取れる。


最初にこの文に触れたとき、ラテン語のもつ奥深さにはまってしまった。

 

例文②


もう1つ見てみよう。

 

Fratres, agnoscamus peccata nostra,


最初の「Fratres」は、「兄弟の皆さん」と呼びかけている。次の「agnoscamus」は、「agnosco」が元の形で、語尾が「mus」となるのは、1人称複数のしるしである。本来は「agnoscimus」となるはずだが、「agnoscamus」となっている。「i」が「a」に代わるのにも意味がある。それは、直説法接続法に代わるしるしなのである。直説法だと「兄弟の皆さん、私たちは私たちの罪を認めます」となるが、接続法になることで「兄弟の皆さん、私たちは私たちの罪を認めましょう」主観的な気持ちが込められる。


もっともっと例文はあるが、要はラテン語には1文字も無駄なものがなく、きれいに整理されているのだ。いくつもの要素が絡まって単語が変化すればするほど、それが解けたときの喜びも大きいのである。

 

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