英語の勉強って手間がかかる・・・このように感じたことのある人は少なくないのではないでしょうか。
日常生活の中で聞いたことのある英単語でもスペルを覚えるのは大変だし、聞いたことのない英単語だと「何、それ?」というところから始まります。単語レベルでもそうなのに、文法なども考えると頭が痛くなります。
学校で英語を習っていたのになかなか使えるようにならない。これには「日本語と英語は言語的に違いが大きい」ということが一因としてあると思われます。
この点について、米国国務省(外務省的なところ)の語学研修を担うFSI(The Foreign Service Institute)の調査が参考になります。国務省の人が派遣先言語を習得するのにかかった時間、つまり、英語のネイティブスピーカーが他言語を身につけるのに要した時間についての調査です。
とてもたくさんの言語に関する調査結果があるのですが、概して「英語との違いの大きさ」が習得にかかる時間に影響していると言えるでしょう。
この調査ではJapanese(日本語)が最も時間がかかる言語とされています。フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語などは1,000時間未満なのに対し、日本語は2,000時間超!
- 英語話者が日本語を習得するのにかかる労力
- 日本語話者が英語を習得するのにかかる労力
これらが同等のものだと仮定すると、日本人は英語を身につけるのに「2,000時間超」もかかるということになります。中学校~大学の間に1,000時間くらい英語を学ぶとされていますので、残り1,000時間といったところでしょうか。
ただし、FSIの調査で注意しなければならないのは、2,000時間超という数字はclass hours(授業時間)だということ。国務省の人は自学自習もしているでしょうし、他言語を身につけるのが仕事の人です。そう考えると、日本人が英語を習得するためには相応の努力と覚悟がいるような気がします。
このあたりのことについて、多言語学習者はどのように感じるのか。「母語以外の言語を話せるようになるために」というテーマで、「【寄稿】とある教会関係者の言語学習体験記」シリーズの執筆者に聞いてみました。
私の多言語学習経験についてのシリーズ記事の執筆を頼まれ、英語・フランス語・ラテン語・ギリシャ語の後、今学んでいるイタリア語の記事まで書ききった。
その原稿をメールで送った直後、すぐに今回の記事を頼まれた。まだまだ御役御免にはならないらしい。ロジカルノーツとは長い付き合いになりそうである。
そもそも「話せる」次元をどこにおくのか
例えば英検をみても、いくつもの級に分かれている。5級だって「話せる」レベルではあるが、英検5級保持者は自分が「話せる」とは言わないだろう。TOEICだって同じである。おそらく日本人は母語以外の言語を「話せる」と言うとき、かなり高いレベルをイメージしているのではないだろうか。
以前の記事でも述べたが、日本で10ヶ月間ほどイタリア語を学んだ後、私はイタリアへ留学した。
しばらく経ったとき、「3週間前にイタリアに着いた」と片言のイタリア語を話したことがある。このとき、何人かのイタリア人は「上手に話している」と言うのである。おそらく、イタリアにいる期間と比べて「上手に」話しているのであって、これが1年イタリアにいてこのレベルだと、困るだろう。
何時間の勉強が必要なのか
大学卒業までに1,000時間ほど英語を学ぶ。FSI調査をあてはめてみると、英語を習得するにはあと1,000時間は学ぶ必要があることになる。しかし、この数字はあくまで「目安」でしかない。
日本で教育を受けていれば、皆がある程度の時間の外国語(英語)教育を受けていることになる。しかし、教師の力量や個人の能力、意欲によって習熟度の差が出ることは、自分の経験を見ても肯定できることである。ということは、これからあと「1,000時間」机に向かっていたとしても、人によって異なる結果が出るのは明らかであろう。
その人の能力について
私は、○○時間というよりも、次の3点に留意したい。
母語以外の言語能力・学習経験
私は今イタリア語を学んでいるが、受験レベルの英語と大学での第二外国語の経験(フランス語)、少しのラテン語学習経験などがある。「日本語だけでずっと生活してきて、イタリア語を初めて学びます」ではないのだ。文法や単語は、今までの学習経験が大いに役立っている。さらに、前述の通り、日本で10ヶ月程度のイタリア語学習経験がある。ある程度の文法事項の説明を「日本語」で詰め込んできたことは大きいだろう。
思考力
これは語学だけの問題ではないだろうが、学習者の論理的思考力がどれほどかということは、どれだけ時間をかけるかよりも前の問題ではないだろうか。
背景知識
私事であるが、イタリア語を学ぶことが目的ではなく、この後の大学院での学習のために、今イタリア語を学んでいる。従って、今後学習する内容の背景知識をどれだけ積み上げているかが今後の学習を左右するのである。また、イタリア(ヨーロッパ)では、宗教や歴史・芸術についての知識がなければ文は読めても理解はできない。その点で単語の持つ背景知識が必要となるのは言うまでもない。
ここで、背景知識について付記しておく。
小学生の説明文理解についての研究から、彼らは文章を文・段落を理解して「積み上げていく」理解をしている。一般的な小学生には、絶対的な背景知識量が不足している。一方、「大人」は評論文を読むときに、テーマが分かれば、ある程度の知識をもとに読み進めていく。良い点は知らない単語が出てきても前後の意味から類推し、背景知識を活用して読み進めていけるところ。悪い点は思い込みで読んでしまうところである。
この点で、単語や文法を知って「言葉を話せる」ようになったとしても、「話す内容」がなければ話せるようになるとは言えないのではないか。極論を言うなら、まず母語でしっかり勉強することが大切なのだ。受験生時代に「国語ができない人は英語ができない」と言われたことがある人もいるだろうが、この点では真実なのである。
子どもの言語獲得との関連
今回の記事を頼まれた際、「おもしろいので目を通してほしい」と言われたサイトがある。English Hubというサイトである。
English Hubにあるいくつかの例を見ても、結局密なスケジュールで行うことと講師との距離の近さが必要だと言うことが分かる。
またこのサイトでは、言語習得に関して様々な説が挙げられている。「学習」と「習得」を学者があれこれ言うのは大切であろう。しかし、実際に言葉を学ぶ者にとってみれば、そんなことはどうでも良いのである。「学習」なのか、「習得」なのかを考える暇があったら単語を覚えた方がよいだろう。
どうであっても母語以外の言語を習得するのが目的であるから、その点で考えるなら子どもの言語獲得の過程と「密なスケジュールと講師との距離の近さ」は関連していると言える。
多言語学習のメリット
私が言うまでもなく、多言語学習のメリットは視野が広がること。言葉は必要があって生まれるものであるから、多言語を学ぶことで、その言葉が話される文化の背景を知ることができる。
しかし、これは「多言語学習」に限らないのではないか。
私は大学時代に少し心理学を勉強し、その後は神学を勉強した。大学受験では私立文系科目しかできなかった私にとっては、理工系の勉強もある意味「他言語学習」と同じぐらい大変なことだと思う。
言語に限らず、色々なことを勉強することには、小さい自分の世界を少し広げる働きがあるだろう。
その上で「多言語学習」の観点で考えるなら次のようなメリットが挙げられよう。
(と言っても、日本語以外は自分の考える「話せる」レベルではないので偉そうなことを言う資格はないのだが)
交友関係が広がる
コミニュケーションが成立するレベルで言語を使えれば、それだけ交友関係は広くなる(もちろんその人の性格によるところもある)。
交友関係が広がることのメリットはなんだろうか。
その重要なものの1つは、自分の価値観を相対化できることではないだろうか。「日本の常識」は他国では常識でないことを体で感じることで、自分が何に囚われていたかに気づくことができる。
そして、「余分な考え」を削ぎ落とす、また削ぎ落とされることによって、「自分の譲れないもの」を見つけることができるのではないだろうか。
学ぶことは「つながる」
視野や交友関係を広げるためであれば、そこまで「多言語」にこだわらなくてもよいだろう。
多言語学習のメリットはなんだろうか。そう聞かれると正直困ってしまう。なぜなら、私は(決して嫌々ではなく)必要に迫られて大学卒業後に、第二外国語以外の言語(ラテン語・ギリシャ語・ヘブライ語・イタリア語)を学習することになったので、そのメリットを考えてとりくんだのではないからだ。
しかし、結果的に多言語学習の機会をいただくことで感じることは、「どれも無駄になっていない」ということである。必ずどこかでつながるし、それは言語だけのことではない(この意味で私は過去に戻れるなら中学校に戻って、中高6年間できちんと勉強し直したいと真剣に思っている)。
これは、日本語を母語として話している私が、西洋言語をいくつか勉強しているから「つながる」と考えているのであって、全てではないかもしれない。ただ、私が勉強したいくつかの言語はヘブライ語であっても、程度の差こそあれ、相乗効果があるように思う。
要は、とにかくいっぱい勉強したらそれだけ学びが多いのだ!
今、私が住んでいるところには、イランからの学生もいる。イラン人と話すのは初めてだし、数ヶ月間は生活を共にする。二人の共通言語はお互い始まったばかりのイタリア語だ。
確かに英語の必要性が日本では言われているが、イタリアに来て感じることは、英語だけじゃ足りないということである。
先日は、ウィーンへ観光に行った。ウィーンではイタリア語ができることはそんなにメリットにならない。現地で話されている言葉を知ることで、より現地のことを知ることができるのだ。今の私は、イタリア語をある程度勉強したらドイツ語を学びたいと思っている。それは、ウィーンのせいだ(笑)。また行きたいと思わなければ、ドイツ語を勉強したいとは思わなかっただろう。
日本語話者が注意・留意すべきポイント
日本語話者が多言語を学ぶときに注意・留意すべきポイントとして、痛感していることは、発音とアクセント・抑揚である。
先に述べたが、私は20年前の「私立文系」の英語の勉強しかしていないので、音声の面で英語の勉強をしなかった。また、読むことは勉強しても、書くことは得意ではなかった。rとlの発音も重視していなかった。
今は、英語学習も変わってきているだろうから、そこまでではないかもしれないが、同じ音のように聞こえても、rとlが違うだけで違う単語になってしまうことは、日本語話者には難しい問題である。
今の私は、少しではあるが「人前で読む」機会をいただいている。
日本人からしたらオーバーかもしれないが、少なくともイタリアでは抑揚をつけることが必要だと教わった。そこを大切にしないといくら内容があっても、伝わらないのだ。
この点でも、「日本ではこう読む」という自分の考えを横に置いて、「ここはイタリア」だから自分を変えていきたい。この変化を嫌なものととらえるか、新しい自分に気づくと考えるか。私は後者を生きていきたい。