先日はじめた卒論再考察シリーズ。その1回目を担当してくださったWさんからの感想が届きましたので、紹介させていただきます。
はじめに
卒業論文の再考察記事のお話があった時、これまでの足跡や自分のしてきた選択を振り返る機会になることなので、個人的にはとても嬉しいお話でした。
しかし、いざ再考察をしようと取り組んでみると、大学という環境を出て社会人になった私には、思ってもいなかったハンデがあり、難しさがありました。
改めて、一度きりの人生の中で、大学という環境にいることができる有難さを思い出し、大学という環境に身を置けていたことの貴重さを痛感しました。「卒論再考察」の企画へのお誘いは、私にとって大切なきっかけになったかもしれません。(吉崎さん、有難うございます。)
論文の再考察をするにあたって難しかったことは、大きく2つあります。
- 文献へのアクセス
- フィールドワーク
以下、私が感じた難しさをシェアします。
【困難①】文献へのアクセス
大学という環境を出た私は、オープンアクセスになっているもの以外には、自由に文献へのアクセスができません。
読みたいもの、調べたいものと、ピンポイントに関連しそうなものを見つけても、会員でないとその文献を閲覧できない場合があります。
学ぶ上で必要なデータベースには、大学自体がお金を払っていて、学生はそれを利用できるというものが多々あります。好きな時に、好きなだけ、専門ツールで文献にあたることができるのは、大学という環境に身を置いているからこそ享受できる貴重な恩恵のひとつ。大学を出てから7年が経ち、卒業論文の再考察をした時、このことに気付きました。
ちなみに、論文を書く上で文献にあたる(先人達の研究成果にあたる)目的は、論文の主題となるリサーチ・クエスチョンを明確に定めるためです。(他にも先行研究を読破するという目的はありますが、本稿ではこのように考えて話を進めます。)
自分がこだわりたい問題と関連分野での先行研究。とにかくこの両者をすり合わせ続ける(先行研究と対話し続けるという言葉もあります)ことで、明確なリサーチ・クエスチョンが磨かれていきます。したがって、卒業論文を再考察するために、現時点での問題点を再度設定しようと思った時、文献は必要不可欠な存在だったのです。
もちろん、資料の中には公共施設である図書館やネット検索を利用すればいいものもあります。しかしながら、そのように入手した資料であっても、「公表されている統計・数値を参考に、自分の考察を展開することはしてはいけない」という論文ルールのようなものもあります。
また、大学時代、私は、「公になっている統計資料の中でも、特に国・行政(政府機関)の数値は鵜呑みにしてはいけない」と言われていました。「GDPの数値ひとつとっても、そのまま受け止めるな」と教わったこともあります。
ネットリサーチをしただけで提出したレポートは、成績評価すらしてもらえなかったことがあります。それが大学時代の学びにおいて初めて経験したショックな出来事でした。
研究(卒業論文の目的)は、勉強とは違います。既にある情報を知り、それを考え、まとめ、自分の中に落とし込むのは勉強です。 これに対し、研究とは、まだ世の中に存在しないもの、新たな知識を自らで生み出す取り組みです。そのため、自分の中にある問題意識を見つけてからは、そこに向けて新しい知を生み出すための活動が重要になります。
また、ネットリサーチだけでは足りない理由として、もうひとつ挙げられます。
ネット上から得れる統計情報は、誰にでも入手できる最低限の情報であり、そこには様々な条件設定から漏れた対象者・情報が山のように存在しています。論文として仕上げていきたい本当の対象は、この数値から漏れているものであり、そこを見つけることに価値があるというか、必要があります。
例えば、日本の識字率の数値に含まれている対象者は、どういう条件に生きる人を対象に集計されてきたか。また、未就学の子どもの数なんていうのも、そこにカウントされているのはどんな子どもか。
日本国籍を持たずに(持てずに)生きている人達は当然、国の統計数値には入っていませんね。いろいろな数値には、数値として見えない事実がたくさんあります。そこを無視して考察をしてはいけません。よく「世論調査の結果、なんと!」というものを見ると、「いや私は調査対象に入ってないしな」、「それは正確な世論調査ではない」と言いながらテレビを見てしまうひねくれた自分がいます。。
【困難②】フィールドワーク
権限も立場もない状態で、何かを依頼することは困難です。大学生・研究生であれば、大学名を用いて、正式にインターンやインタビュー等の依頼をかけることができました。しかし、大学を出て社会人になると、この依頼は難しくなります。
年数が経つと、大学生当時にお世話になったフィールドワーク先の方々はいらっしゃらないことがほとんどですし、見ず知らずの何の後ろ盾・名刺もない一市民(しかも、メディア関係者でもない)から「興味関心があるためインタビューさせてほしい」と言うのは・・・非常に怪しいものです。笑
私の場合は論文の分野上、海外フィールドではないにしろ、公共施設や公立・私立学校の中の子ども達を対象にしていた調査だったので、とてもじゃないですが相手にしてもらえないところがほとんどです。ましてや2020年の社会変動もあり、外部者(一般市民)をそうそうと入れることもできませんよね。
いまを生きる子ども達にコンタクトをとるのであれば、まずはボランティアを募る場所を見つけることになるのでしょうが、これも考えもの。そこに長く関与する者ではないと無責任だからです。さすがに再考察の声かけのためだけに気軽に関与し、すぐに抜けるというのは、一時の興味を満たすためにするべきことではありません。
卒論再考察の難しさを経験して
上に述べた2つの困難を感じたことによって、私は、「大学」という環境にいた頃の有難さを再認識できました。あの時の自分・・・なんて恵まれていたんだ・・と。
当時気になって夢中になって関わっていた環境に、いまでは一般利用者としての訪問しかできなくなっていること、「大学」という後ろ盾がなくなっていることは、当然のことではありますが、寂しさを感じるものでした。
しかし、多くの人が生きやすい、より良い社会をつくるためにある実践学問の中で学ぶことができていた身としては、少し思うところがあります。
大学時代という人生の一時期おいて得られた研究成果を社会に還元する難しさ。また、それを私生活に還元するための取り組みに再び挑戦しようとするときの難しさ。大学という環境を出ると、これらに直面します。特に、現状把握のために必要な対象にアクセスしていくことが難しく、歯痒いものです。
やはり大学時代に一生懸命挑戦したことへ繋がるような、関連する分野での仕事をしていない限りは、社会人になった後、再度課題と向き合う試みをしたいとなっても、制限があるんだなと気付きました。
少し話はそれますが、社会の中での自分の役割がまだわからない状態での就職活動について、私は甚だ疑問を感じながら卒業しました。「就職先って、こうやって決めるものなのかな」なんてことも感じていました。もしかしたら大学時代の取り組みを継続したいか否かを就職活動の指針とするのもひとつのあり方なのかもしれません。
大学に通える状況の有難さ
学びの観点で最高の環境を提供してくれるのが、大学です。
家族が頑張って用意してくれた資金で大学に通えている人は、本当に貴重な環境に生まれています。私もその一人でした。こんな恵まれた環境にいる自分だからこそ、もっとこれまで学んだことを還元して、自分も相手も豊かになれること、社会のためになることに全力になれなくっちゃ、どうする!と感じます。
私をずっと応援してくれていた父からは、生前よく「仕事、一生懸命がんばれよ。」と言ってもらえていました。大学を出た先の私の未来を、一緒に楽しみにしてくれていた父。その気持ちを想像します。そんなこんなで、大学教育は最高の贈り物なんだろうなと思います。
コロナをきっかけに、私は、大学進学を諦めなければならない人の存在に気付かされました。
自分ではどうしようもない環境によって、目の前の課題に手も足も出ない境遇にある子ども達は多いようです。
私の大学時代の先輩は、シングルマザーの家庭で育ち、自分で学費を稼ぎながら大学に通い続けていました。このことを、私は、コロナの渦中に先輩本人からの話で知りました。当時の私は、先輩のそのような事情を知りませんでした。当たり前のように授業を受けている、超優秀な先輩だったからです。
仕事の合間に勉強し、いろんな権利と機会を放棄せざるを得ず、部活もやめる。気楽に友達と遊んではいられなかったくらい、「あれ?私って出稼ぎにきてたんだっけ?」と思うほど、バイトをしていたそうです。それでも勉強したいことがあるから進学を決めて、自分で稼ぎながら大学に通っていたとのことでした。
当時は行政も大学も支援は十分ではなく、就職活動もハードルが高かったそうです。スーツを買う資金、説明会に行く資金も大変な負担だったとのこと。
その先輩は、今、ご自身の経験を活かした仕事をされています。
親がなくなった子ども達の教育を支援する法人で働き、海外でも、戦争に参加していた子どもの社会復帰を支援する仕事をしていました。
日々社会に、大学での学びを還元されています。教育を受けることができると、未来につなげるものがたくさんあるんだなと感じました。
最後に
徒然と書いてしまって読みづらかったかと思いますが、ここまで読んでくださってありがとうございました。
卒業論文を再考察した期間、自分自身の学生時代の過ごし方を振り返り、大切な気付きや発見をすることが多くありました。そして、大学と社会の繋がりを再度考え、これからの生き方、社会の中での自分の役割を考える時間となりました。
現在、新しい大学生生活が待機状態の方や就職活動の停止を余儀無くされている方も多く、また、これからの生活に不安をもつ方も多いと思います。
大学という環境にまだ現在も身を置けている方、貴重な幸運をつかめている方、家族の支援で安心できる環境にいることを再認識できている方は、この時間を、これから変化していく世界・社会における自分の道を真剣に見つめ直す時間にしてみるといいかもしれません。
- この期間に目にしたニュースやSNSの情報の中で、心に残ったことはないか、気にかかったのに見過ごしていることはないか
- 前々から気になってはいたけれど放置していた、心の隅に置きっぱなしのトピックはないか
- やり直したいことはないか、やっぱり諦めたくないと思える再挑戦したいことに目をつぶってないか
大学で勉強していたこと、周囲の人を思い出したり、気になっている先輩に連絡をしてみて何をしているのかを聞いてみたり。そこから、自分の新しい関心、これからの探究心をつなげられそうなものが見つかるかもしれません。
日常生活は少しずつ戻っていっていますが、きっと以前とは違う動きになっているはずです。周りを見渡してみると、普段見えなかったものや新しいものは、自分へのメッセージで溢れていると思います。
自分の時間の中に、人との対話を、期待はせずに、織り交ぜてみることだけでも十分良いと思います。いろんな人と対話をしてみると、案外その一瞬の中でも、友人との大切な絆を再認識できたり、新たな友人・仲間が見つかったりもします。こんな時期に一緒に悩みを共有して考えあったり、腹を割って話せる友人はきっと一生大事な友人です。
自分のエネルギーを使う場所を間違えず、自分が良くなる事で真剣に悩んで、自分の人生をつくるための時間を過ごす。貴重な生きている時間を、みんなで有意義に過ごせますように。
(Wさん)