さまざまな教育機関が新型コロナウイルスの影響を受けています。
小学校から高校まではもちろん、これは大学にもあてはまります。
大学で使われる教科書(英語)の執筆者でもあるロジカルノーツの鈴木順一(Administrator)が書いた次の記事。
これは、実は「(大学)受験英語と大学からの英語のギャップを感じる(べき)時期に休校というのはキツイと思いますよ」との考えから、急遽書き上げたものでした。
いまの大学生の、大学生活はどのような時間になるのでしょうか。さまざまなことに取り組み、いろいろな感情を経験し・・・ということが、もしかしたら大きく変わっていくのかもしれません。
せっかくの大学生活が思ったものではなくて、ネガティブな感情が心の中で大きな割合を占め、一度しかない時間をもったいないものにしてしまう。このような事態は、その個人にとってはもちろん、社会的にも大きな損失だと思います。
そこで、ロジカルノーツでは、なにか新しいシリーズを始めようと決めました。「卒論の再考察シリーズ」です。
大学生活を経験した人にとって、「卒論」が集大成であることは少なくありません。卒論自体はまとまった文章の1つ(にすぎない)ですが、これに至るまでのプロセスには「大学生活での学び」が反映されています。ただの文章ではありません。卒業から数年が経った後にも、「卒論を頑張った」という思い出が色濃く残り続ける人もいるでしょう。
大学を卒業し、いろいろなことを経験し、見聞を広め、「いまだったら『あのときに書いた卒論』とどのように向き合うのだろうか」を考えて言葉にする。そして、その言葉に触れた人が「大学生活をどのようにしていこうか」を考える一材料にする。
このような展開に結びつけばいいなあと思います。
ふと思いついたこんなアイデアに共鳴してくださったWさんに、今回、シリーズ第1回目を担当していただきます。
はじめに
私は大学時代、「グローバル人間学」という学科に所属していました。 文系か理系かという区別では、当時はまだ珍しかった文理融合学科です。
医学、薬学、工学等のどっぷり理系の研究生も同じ授業を受けることが多く、同じグローバル人間学のコースのなかでも、環境・バイオ系を専門とする学生もいました。
「グローバル」「人間」「学」
グローバルな潮流と
人間との関係性の在り方と可能性を
不断に問い直していく
未来に開かれた学
言い換えれば
既存の思い込みを排除して
希望のビジョンを描くための統合化の学(グローバル人間学の世界:p.1)
※ 後述の「共生学」は、「グローバル人間学」から改名された学科名です。「共生学」についても定義や学問としての方向性をまとめています。私が在籍していた当時からの変遷があります。
「グローバル」に含まれるもの
いまの10代・20代の学生は、海外でボランティアやインターンを経験している人が非常に多いです。(世界と比較すると日本人は少ないけれど、それでも)
1年前のこの時期、Apple Storeで私の接客をしてくれた、大学2年の男の子は
「僕、海外の人と仕事がしたくて空港の本屋でバイトしてたんです。で、バイト代ためて毎年どっか途上国いってボランティアしてて、今度の夏休みはインド行ってきます!」
と世間話をしてくれました。
去年の冬は、飲み屋で、専門学校卒業したばかりの21歳の男の子が
「僕は来年、海外にある日本大使館で料理人見習いやるんです。海外で勝負したくて。」
「この前はオーナーのフランス旅行ついていかせてもらって、飲み歩いて、勉強してきました!めっちゃ刺激的で!」
と未来への抱負を話してくれました。
オンライン慣れで育った環境もあり、彼らの感覚からは国境という区切りは既に外れているんだなと感じることも増えました。クラウド・ファンディング等でも実現されているように、いたるところでこの感覚が飛び交っています。
そして10年前、数年前までの、グローバルの言葉の中身も、当時のありきたりなイメージ(絶対的貧困や紛争、先進国の資源競争、多国籍企業etc.)からはもう大きく変化し、さらに複雑化し、深い意味合いになっています。
「人間」について
今の私たちの満足につながるもの、幸福と感じるもの、それらは今も昔も変わらず、人とのつながりの中にあります。
時代で変化するものが多くても、この軸は変わらないものだと思います。
最近見た言葉では、人との縁から起きるものから(縁起)、道がつながり、望む幸福や目標達成へと続いていく、というものがありました。
まだ自信はないけれど、この言葉は私にとっては、受け入れやすかったです。
現代の学問「共生学」
グローバルな潮流のなかで「生きる」ことをどう捉えるのか。
そのために、人が「生きる」ための潜在能力に注目する、人との繋がりの中での生き方、社会の在り方を研究するための分野が存在しています。
「共生学」です。
高度な「共生学研究」を掲げる国立大学(関西では京都大学、大阪大学、神戸大学をはじめ)、共生を掲げる大学が増えてきています。
この学問は完全な文理融合であり、1つの学問(法学、哲学、文学等)の範囲にとどまらず、幅広い学問の知識習得(環境学、工学、医学等)と多種多様な研究技法が要求されます。
そして各々好きな専門分野で、研究を進めます。
- グローバル・ヘルス(公衆衛生、疫学、保健医療統計、開発経済学、医療経済学、人口学、法学、等)
- 難民・人道支援(医療・保健学科の学生が目立っていました)
- 環境問題 ・コミュニティ(地域共生ー 例) 高齢者、多世代共生等)・死(生老病死)
- スポーツ
- 国際医療・医療通訳
- ジェンダー(女性史等)
- 性教育(CSE等)
- 教育・国際開発
- 伝統継承、先住民、コミュニティ
- 多言語共生 ・食(栄養学、健康...海外の諸民族の食文化とか)
※ 表記不十分なところがあるかもしれませんがご了承ください...
共生学は、既存の個別的な学問分野・研究領域において、多種多様なサイエンスが展開されるべきであり、多様な研究方法を用いて、問題の状況を俯瞰的・体系的に把握し、それに係る諸要因の関連性や課題・問題の固有性をうまく記述すること、そうした科学的営為なくし て、十分な課題解決を導くことは難しい(共生学宣言: p.16)。
(バイトや遊びや社会活動だけでなく もっともっと、他分野の読書の時間を増やせばよかったなぁ...と社会人で外に出ると思います)
卒業論文 - 当時の学び(Y市とスウェーデンより)
私は「グローバル人間学」のなかで、多文化共生・多言語共生というキーワードをもとに活動し、地域を絞り、「外国にルーツをもつ」子どもたちとその周辺の人々(家族、地域住民)にスポットをあて、なかでも彼らにとっての「地域図書館の役割」について、卒業論文を書きました。
卒業論文執筆前:社会に参加し、課題を見つける
私は先行研究を読みつつ、いろいろなところに飛び回って社会参加していました。
- 多文化共生の分野では、国内で最も先進的で柔軟な行政での取組みができているY市(非常に多くの外国諸地域との姉妹都市提携、活発な地域住民の国際交流・相互理解のイベント開催、国際交流の中心地)の公共施設でのインターンシップ
- 外国にルーツをもつ子ども達が多く在学している学区での、学習支援ボランティア
- スウェーデンへの留学
スウェーデンは多くの国民が「外国にルーツをもつ人」であり、「外国にルーツをもつ人」とは「外国生まれのスウェーデン在住者」と「両親が外国生まれのスウェーデン生まれの人」を含んでおり、私の研究テーマに近いと感じ、留学を決意しました。
卒業論文の流れを考える
自分の住むまちに目を向け直し、外国籍の子どもたちとその親御さんや周辺の人々の生活に着目して、卒業論文を書きはじめようとしました。
これまで学んできたこと、読んだ先行研究、社会の中で目にしたこと、経験してきたことを整理します。
(この手順については、大学の学部までしかいっていない私のやり方で、きちんとした研究の手法からはだいぶ不十分だと思います。ご了承ください。)
「生活」と一言でいっても、当然色々な時間の区切りがあり、それぞれの時間の中で、彼らが直面する課題は異なりました。
- 生まれ育った母国語で会話をする家庭での時間:子どもたちのアイデンティティ形成に影響。
- 日本語で過ごす子どもたちの学校の時間:学習レベル、知能が低いと誤って判断されてしまう子、分断される特別教室、馴染み方に悩みを抱える孤独感、自己主張の仕方。
- 親たちの「日本式の学校」との接触・交流:言語が十分に伝わっていないことでの多くの問題があります。「遠足のしおり」で要求される「持ち物」ひとつとっても。うまくいかないと、その場にいる子どものメンタルにも影響。
- 日本での仕事の時間:外国人労働者という枠で働く彼らは、日本語が不十分な場合、リスク管理が十分にできず、工場労働で指を切断してしまう、契約内容で不当な扱いを受けるなど、数々の悲惨な事例を生みます。
- 怪我や病気、大きな手術で病院へかかる時間:医療通訳が備わっていない病院では、私たちも旅行先で自分の数日間の辛い症状、細かな身体の情報を伝えること、苦労しますよね。それと同じ状況が日々。
- 自然災害時:各地域で災害時用のかんたんな日本語が用意されていない場合、役所や地域のセンターで災害時の案内先を教えてもらっていない場合、突然の地震が起きても何が起きているのか情報がわからない、緊急事態の情報がわからない等。
その他諸々...こういった時間の中で、私が着目したのは、子どもたちの週末の時間ー親とお出かけをする時間であり、その時間を過ごす場所の1つ、「図書館」をテーマにし、そこでの取組みを可能な限り、追加で調査しました。
(卒業論文のときはここがやり込めず、詰めが全くできていませんでした。心残り...)
「図書館」を選択した理由
インターンでの経験の中で最も印象深かったこととして、外国にルーツをもつ人のために、平等なサービスを提供し続ける【司書】さんの存在がありました。
当たり前のように日本で過ごす私にとって、当初このテーマで、「図書館」は全く目に止めることのない、想定にも入っていない場所でした。
しかし、多文化・多言語先進都市、Y市でのインターンシップで、私に必要な指導を最も熱心にしてくださった方が「司書」さんで、そこからの学びのインパクトが大きかったのです。
Y市の多文化共生イベントの日も、日常でも、少し顔を出しに行って喋ったり、困ったことがあると相談にいったり、そして、仲間が来日し、生活を始めるとき、外国にルーツをもつ人たちは、その司書さんの窓口に立ち寄っていたのです。こんな交流が日常的に「図書館」で起きていることを、私は知りませんでした。
司書さんは、彼らが日常生活をおくるために、多言語での必要な情報源をたくさん用意していたのです。そして、日本語学習のサポートとなる教材を、たくさん図書館に用意されていました。
その司書さんの信念は
すべての人が
手にとれない本がないように
すべての人に
読書を通して
心を豊かに、
読書を通して
生活を向上させ豊かにするお手伝いを
でした。
この「すべての人が手にとれない本がないように」というのは、言語を超えた信念でした。
聞けば、日本のすべての司書さんは、すべての人に読みたい本を届けるという役割、信念を教わるそうです。
そして、留学先のスウェーデンの図書館も。
外国にルーツをもつ人たち、多言語を話すユーザー向けに絶対お渡しできない本がないようにする。何語であっても、必ず取り寄せ、提供するという強い信念をもつ図書館があり、それにまつわる先行研究もありました。
大人子ども問わず、手に取る「母国語の本」は、その人に心の安心を与え、安らぎの時間を提供するとのことでした。
何不自由なく自分の母国語で過ごす環境にいる私にとっては思いつきもしない読書の影響力がそこにはあり、本による国際支援というのか、図書館が、多言語での共生を実現する場であることに気付かされました。
同じような信念をもつ司書さんたちは、地域の図書館で独自の多言語サービスを創意工夫、展開していました。そして、そこに立ち寄る人々は、図書館を拠点にさまざまな情報を入手していました。
次の記事では、「卒論」を書いてから7年が経った現在の視点で、その再考察をしたいと思います。
(W)