説明を聞いたときに生じる疑問のパターン
自分の思っていることは自分だけのもの。だから、その内容を誰かにわかってもらおうとするならば説明をしなければなりません。
自分の思っていることは自分だけのもの。だから、その内容を聞いた人の心の中にはいくらか疑問が生まれるかもしれません。
言葉による説明に接したときに生じる疑問は、次の3つのどれかであることが多いでしょう。
- 「なんで?」
- 「たとえば?」
- 「どういうこと?」
今回は「なんで?」という疑問を相手に抱かせないようにするために気をつけるべきことを考えたいと思います。これは「それって理由になってる?」と言われないようにするためのことでもあります。
理由の表現
理由を示していないと「なんで?」という疑問が生じます。
- 「結論だけ示せばいいでしょ。それでも伝わる人には伝わるし。」
そうなんです。伝わる人には結論だけでも伝わります。でも、そうでない人には伝わらないんです。
自分の思っていることは自分だけのもの。そして、それは他の人にもあてはまります。思っていることは人それぞれ。だから、みんなそれぞれスペシャルな人と言えるでしょう。
そんなスペシャルな人にものを伝えるための労力を惜しんで「自分の思っていることをわかってもらおう」なんて虫がよすぎます。
さて、理由の言い方ですが、基本的には次の2つです。
- A。なぜなら、B。
- B。だから、A。
いずれも「B」が「Aの理由」です。後で理由を言うか、先に理由を言うかの違いです。
【基本編】
私は野球よりもサッカーが好きだ。なぜなら、球技だからだ。
この例文を読んで「なるほど!」となる人はあまりいないでしょう。いるとすれば「野球・サッカー・球技」という言葉の意味を知らない人です。
「なぜなら、球技だからだ」という言葉は、「私は野球よりもサッカーが好きだ」という言葉の理由として機能していません。「野球」も「サッカー」も「球技」だからです。
この簡単な例文をもとに、もう少し考えてみたいと思います。
表現面
「なぜなら」という言葉を使用する場合、語尾には「から」などの「理由であることを示す言葉」を用いるのが原則です。この観点からすれば、「なぜなら、球技だからだ」という言葉を単体で評価した場合、「(『なぜなら…から』と言っているので)表現はおかしくない」ということになります。
情報面
「なぜなら、球技だからだ」は「サッカーが好きだ」に続いていますので、「なぜなら、(サッカーが)球技だからだ」と述べていることになります。この観点からすれば、「なぜなら、球技だからだ」という言葉を単体で評価した場合、「(サッカーは球技であるという)情報はおかしくない」ということになります。
なぜ理由として機能しないのか
上述の通り、「なぜなら、球技だからだ」という言葉は、これを単体で評価した場合に表現面および情報面でまずいところはなさそうです。では、なぜ「私は野球よりもサッカーが好きだ」の理由として機能していないのでしょうか。
「私は野球よりもサッカーが好きだ」ということを理由づけようとするならば、次の4パターンのいずれかであることを示す必要があります。
- 野球にあって、サッカーにないものをマイナス評価
- 野球になくて、サッカーにあるものをプラス評価
- 野球とサッカーに共通するものをプラス評価し、その程度はサッカーのほうが大きいと評価
- 野球とサッカーに共通するものをマイナス評価し、その程度は野球のほうが大きいと評価
要は、野球とサッカーを区別しなければならないということ。「なぜなら、球技だからだ」という言葉は、野球とサッカーを区別する情報を含んでいないため、いま理由として機能していません。
言葉の基本的な役割は、他のものと区別すること。このことを特に気にしなければならないのが「理由を言う場面」です。
【応用編】
理由が他のものとの区別を示すということは、「他の可能性を切る」ということでもあります。
例文
寿命がのびた。だから、介護負担が大きくなった。
この例文では順接を用いて理由(寿命がのびたこと)を示しています。では、これは理由を示したと評価してよいのでしょうか。
ちなみに、以下では、「寿命がのびたことを悪く捉えているのはけしからん(怒)」といった価値観の話をしたいわけではありません。
- 寿命がのびた。だから、介護負担が大きくなった。
この発言に接した人の中には「えっ、寿命がのびたとしてもそれ以上に健康寿命がのびれば、介護負担って小さくなるんじゃないの?」という疑問を抱く人もいるでしょう。
このような疑問をもつ人に対して「寿命がのびた。だから、介護負担が大きくなった。」と発言した場合、「それって理由になってる?」という疑問(ツッコミ・ダメ出し?)が発生してしまいます。
「他の可能性を切る」
「α。だから、β。」という表現で理由を示そうとするとき、気をつけなければならないのは「他の可能性を切れているか否か」ということ。
「α。だから、β。」を次のように捉えてみます。
- 「αである」ならば「βである」
このとき、次の可能性を否定するものでないと「α」は理由として評価されにくいでしょう。
- 「αである」ならば「βでない」
この可能性を切ることができたとき、「αはβの理由になっている」と評価されます。
「あれば/なければ」の発想は、論理的な表現を考えるのに役立ちますね。
例文の分析
「寿命がのびた。だから、介護負担が大きくなった。」
この発言を聞いた人から出された「寿命がのびたとしてもそれ以上に健康寿命がのびれば介護負担は小さくなるのではないか」という指摘はどのような意味をもつのでしょうか。
- α:寿命がのびた
- β:介護負担が大きくなった
「αがあった場合、『βでない場合』が発生しない」という話になれば、「αは理由になっている」と評価されます。
「寿命がのびたとしてもそれ以上に健康寿命がのびれば介護負担は小さくなるのではないか。」
この発言は、「α:寿命がのびた」という事実があったとしても「β:介護負担が大きくなった」とは正反対の結果が生じると指摘したものです。
「αがあった(寿命がのびた)場合でも『βでない(介護負担が大きくならない)場合』が生じる」ということですので、「α:寿命がのびた」は理由としては甘いと言わざるを得ません。
では、どうすればよいのでしょうか。
寿命と健康寿命の差が開いた。だから、介護負担が大きくなった。
このように言えばよいのです。「寿命と健康寿命の差が開いた」と言えば、介護負担が小さくなる可能性を切ることができるからです。
※ 説明の便宜上、「人数」や「負担の程度」という考慮要素については省いています
理由を示すということ
理由を示すということは、ある意味で、他者を尊重する姿勢のあらわれだと思います。理由を示そうとするとき、「あなたは私と違う」ということを認めているからです。
たくさんの人が近くにいて、それぞれ思っていることが違う。だからこそ、人生は飽きないし、楽しいものなんだと思います。でも、他方で、自分と違う人がたくさんいると、どこか寂しく、思い通りにいかないことに疲れたり滅入ったりすることもあります。深刻で、悲惨な問題に発展するケースは例を挙げるまでもありません。
これから多様な価値観が身近になる日本社会の中では、いろんな人と共生することとなるでしょう。「いまよりももっと」です。
今後、「国際共通語としての英語」や「異文化受容態度」の重要性は、より一層大きな話題になると思います。しかしながら、これらと同じくらい、いや、もしかしたらそれら以上に、「私とあなたは違う」ということを認めた上で関係性を築くために「しっかりと理由を示す力」も重要になってくるのではないでしょうか。
(吉崎崇史)